「まずキリストにある死者が」

(テサロニケ人への手紙第一4章13〜18節)

牧師 広瀬 薫

Iテサロニケ 4:13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。

Iテサロニケ 4:14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。

Iテサロニケ 4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。

Iテサロニケ 4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、

Iテサロニケ 4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

Iテサロニケ 4:18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。


 キリスト教会で広く知られている信仰問答に、「ハイデルベルク信仰問答」というのがあります。ウェストミンスター信仰告白・大小教理問答と共に広く用いられてきました。

 ウェストミンスターがかなり理屈っぽい、と言いますか、論理的に緻密な構成になっているのに比べて、ハイデルベルクは、実存的、と申しますか、私達の人生に視点を置いて信仰を考えている、という特徴があります。

 そのハイデルベルク信仰問答の第一問は、「生きている時も、死ぬ時も」と始まります。・・・「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」

 私達の人生ということに視点を置いて物事を考える時に、根本的な事実は、私達が生きている、ということであり、また、私達が死ぬ、ということです。

 その、生きていて、死ぬ、私達が、「生きている時も、死ぬ時も」あるいは「生きていようが、死のうが」決して奪われることがない、失うことがない、永続する慰めが、たった一つだけある。・・・それは何ですか、と始まるのです。あるいは、それをあなたは持っていますか。あなたは、その、人間にとって唯一確実な慰めを持って、「生きる時も、死ぬ時も」平安と喜びを持って生きていますか、と問うわけです。

 その答は、ちょっと長いのですけれども、

「私が、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。 主は、その尊き御血潮をもって、私の一切の罪のために、完全に支払って下さり、私を、悪魔の全ての力から、救い出し、また今も守って下さいますので、天にいます私の御父の御心によらないでは、私の頭からは、一本の髪も落ちることは出来ないし、実に、全てのことが、当然、私の祝福に役立つようになっているのであります。 従って、主は、その聖霊によってもまた、私に、永遠の生命を保証し、私が、心から喜んで、この後は、主のために生きることの出来るように、して下さるのであります。」

 今日の聖書の箇所が教えるテーマは、正にこの、「生きる時も、死ぬ時も」私達にある慰めについて、であります。

 13節でパウロは、「眠った人々のことについては」と語り出す。…これは、ようするに「死んでしまった人々」のことです。

 そして、18節で、「こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」・・・と結ばれます。

 つまり、この箇所で教えられていることは、死んでしまった人々のことについて、私達には、そんな、死によっても失われない確実な慰めがあるのだと確かめようではないか、ということです。

 さて、これを書いたのは使徒パウロという人ですが、なぜパウロはこの教えを書いて、テサロニケの教会へ送ったのでしょうか。

 それは、テサロニケの教会に、この教えを必要とする状況があったからです。

 それはどのような状況であったでしょうか。・・・教会の仲間達が死んでしまった、という状況です。

 一緒に神様を信じて、一緒に神様を礼拝し、一緒に奉仕し、祈り合い、助け合い、励まし合っていた、大切な仲間達。一緒に再び来るイエス・キリストを待ち望み、一緒に新しい天の御国へ行こうと言っていた、愛する神の家族仲間達が、一人、また一人と、先にその生涯を終えて行く。・・・彼らは一体どこへ行ってしまったのか。イエス様が再び来る再臨の時、彼らはここにはいないではないか。私達と一緒に天の御国へと行くことが出来るのだろうか。・・・

 皆さん、私達にとって、切実な問題は、自分が救われるかどうか、だけではありません。自分が永遠の天の御国へ行けるだろうか、それとも永遠の滅びだろうか、という問題は切実ですが、同時に、私の愛する家族は、どうなるのだろうか。天の御国で再会できるのだろうか。再び合いまみえ、手を取り合い、御国での生活を共に出来るのだろうか、ということもまた、切実な問題であります。

 例えば私で言えば、私が4才の時に死んだ父はどうだろうか。私の父方の祖父母、私の母方の祖父母、叔父、その何人かは、福音には触れたけれども洗礼を受けたというわけではなかった…そういう、私にとって大切な人達の運命に、私は無関心ではおられません。

 私が自分のこういう問題を考える上で、自分なりに一つ大きかった体験をちょっとお話致しますと、・・・我が家では、長女と次女の間に、実は生まれなかった子供がありました。流産でした。・・・その時に、ある長老派の牧師が、「天国直行だね」とおっしゃった。それが私には、非常な衝撃でした。・・・なぜ、天国直行と言えるのか。・・・私はそれまでいわばバプテスト的な背景で信仰を持って来たと思いますが、要するに、本人が自分の口で「イエス・キリストを私の救い主として信じます」と言う時にのみ、救いは実現する、と思っていたわけです。…すると、生まれてすぐ死ぬ子や、生まれることもなく死ぬ子というのは、自分自身の信仰を持っていないわけですから、救われ得ない。・・・ですから、その時の「天国直行だね」という言葉は衝撃であったわけです。・・・もしそうならば、私は天の御国で、生まれなかった子に会えるのだ。

 その後、私は、ウェストミンスター信仰告白10章3節の、「幼少のうちに死ぬ選ばれた幼児は、いつでも、どこでも、どのようにでも、自らよしとされるままに働かれる御霊を通して、キリストにより、再生させられ、救われる。」・・・というような信仰の世界に出会いまして、あるいはまた、何故そう言えるのか、というような(これは、テーマとしては幼児の救い、インファントサルベーションという分野の学びになりますが)・・・要するに、神様の御恵みというのは、私達の考えを越えて大きいのだ、ということを繰り返し知って、またその度に自分の信仰の枠を広げられるような体験をして、そしてまたその度に、神に出会ったということの喜びを、慰めを、平安を深められた、と思うのです。

 同じ様なことを、私達は、このテサロニケ人への手紙に見るのだと思います。

 彼らは、愛する者の死に出会って、しかしそれを包んでいる神様の御恵みを知らないで、どう受け止めたらよいかがわからないでいたわけです。

 どう受け止めたらよいのか。・・・

 今日の箇所には、愛する者の死、という問題について、2つの受け止め方が出て来ます。

 一つは、13節。「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。」

 死に対する一つの態度は、「望みなく悲しみに沈む」ということです。

 愛する者を奪って行く死。大切な人を遠くへと隔ててしまう死。・・・人間の力ではどうすることも出来ません。・・・どうすることも出来ないからと、どうするのでしょうか。・・・

 諦めるのか。絶望するのか。何か感情的な慰めや心理的な処理をして、気を紛らわすのか。

 しかしここでパウロは、そうではない。死の問題には、解決があるのだ、と言うのです。・・・死に対する二つ目の態度は、今日の箇所に教えられている、クリスチャンの態度です。

 望みが無いのではなくてあるのだ。絶望ではなくて希望があるのだ。悲しみに沈むのではなくて慰めがあるのだと言うのです。

 何故、そんなことが言えるのでしょうか。

 パウロはここにその根拠を挙げて行きます。・・・その3つのことを知るならば、愛する者の死という、切実な状況でも、何者にも奪われない確かな希望と慰めを手にしていることが出来るのだと言うわけです。

 ここには、その根拠として3つのことが出てくると思います。

1、一つは、イエス・キリストが、過去において、何をして下さったか、ということです。

 14節、「私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。」

 過去のキリストの御業とは、「死んで復活された」・・・要するに、「十字架と復活」です。

 その、キリストの十字架の死と復活は、私達に関係の無い過去の出来事なのではありません。私達一人一人に深く関係しているのです。・・・何が関係しているかと言いますと、・・・

 私達がイエス・キリストを信じて洗礼を受けた、ということは、イエス・キリストと結び合わされた、ということだと聖書は言っています。・・・イエス・キリストの何と結び合わされたのか、と言いますと、イエス・キリストの「死と復活」に結び合わされたのだ、と言うのです。

 ローマ人への手紙6章3〜5節、「3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。 4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。 5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」

 私達は、信じた時に、キリストの死と結び合わされて、古い、永遠の滅びに向かう、罪深い自分に死んだのだ、というのです。そしてそれだけではない。キリストの命とも結び合わされて、新しい永遠の命に生かされる、新しい自分に復活してのだ、と言うのです。・・・キリストと共に死に、キリストと共に復活したのです。

 洗礼式というものの一つの意味はこれです。洗礼式で、水に入って、出る、ということは、私達がキリストと結び合わされて、古い自分に死に、新しい命に生きる者とされたことを象徴しています。

 つまり、要するに、イエス・キリストに起きたことは、クリスチャンにも起きるのだと、ここでパウロは言っているのです。イエス・キリストに起きた、十字架の死と復活は、イエス・キリストと信仰によって結び合わされたクリスチャンにも起きるのであって、クリスチャンも必ず、死後復活にあずかるのだ、というわけです。

2、二つ目のことは、イエス・キリストが未来において何をして下さるのか、ということです。

 16〜17節、「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」

 未来のキリストの御業とは、また地上に来る、つまり再臨です。

 イエス・キリストが再びこの世界に来られる時、つまりこの世が終わり、新しい世界が再創造される時に、すでに死んでいたクリスチャン達の復活が起きる。

 復活というのは、今の姿・地上で生きていた時そのままの姿によみがえる、ということではありません。・・・天の御国に行くにふさわしい、全く新しくされた、欠けの無い、いわば霊的な体に復活するのだと聖書は言います。

(※)ですから、今のご自分の体に、あるいは体型に、ご不満をお持ちの方々は、安心して頂きたいと思いますが、永遠の御国に行く時には、御国にふさわしい体を各自頂くのです。

 そのように復活したクリスチャン達は、イエス様の御もとに引き上げられて行きますが、その時生きているクリスチャン達も、その体を新しくされて、共にイエス様の所に行くわけです。そのようにして、再び合いまみえたクリスチャン達は、神の国でイエス・キリストと共に、永遠の世界に生きるのだというわけです。

3、さて、三つ目のこととして、改めて注目しておきたいことは、このキリストの過去の御業・未来の御業の、要するに中心点は何なのか、ということです。あるいは本質は何なのか、と言ってもよいでしょう。・・・要するに私達皆に何が起きるのか、ということです。

 それを表すキーワードは、14節「イエスと一緒に」とか、17節「いつまでも主と共に」とか言われている、「主と共に」ということなのです。・・・この「主と共に」ということが、この辺のキーワードです。

 初めにご紹介したハイデルベルク信仰問答第1問もそうなのですが、私達にとって「生きている時も、死ぬ時も」…何が鍵になるかと言いますと、「主イエス・キリストと共にいる」ということが、全ての解決であります。全ての解答であります。

 天国とは、どういう所かと言いますと、要するに、主イエス・キリストがおられる所で、いつまでもイエス様と一緒にいる所なのです。・・・地上であろうが、天上であろうが、イエス・キリストがおられる所、そこが天国であります。

 主イエス・キリストと共に生きる生活が、天に国籍を持つクリスチャンの生活です。ですから、・・・(参照)5章10節。

 この、主と共に、という世界の中で、私達は、先に召された愛する者達と再会できるのですし、共に天の御国に生きることになるのです。これこそ、私達クリスチャンの大きな希望であり、慰めであり、生と死との解決であります。

 18節、「こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」

 さて最後に、もう一つのことを味わって終わりますが、・・・

 このようにクリスチャンにとっては、死は終わりではない。死を越えて復活の命に生きる永遠の世界が待っているのだ、と教える中で、パウロは面白いことを強調しています。

 15節、「私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。」

 先に死んだ人達はどうなるんだ。…大丈夫、滅びたのではない。ちゃんと復活して救われるのだ。…というだけではなくて、今生きている私達よりも、彼らの方が優先的に救われるのだ、と言うのです。

 これはちょっと不思議な言葉です。第一、「私達は主の御言葉の通りに言いますが」と言うのですが、そのような主の御言葉というのが、どうも見当たりません。

 聖書には記されていないイエス様の御教えかも知れません。あるいは、「後の者が先になり、先の者が後になる」ということで、当時の人達は、生きているクリスチャンの方が再臨の恵みに近く、もう死んでしまった人はどうなるか心配だ、なんて思っていたわけですが、それが逆になるのが神様の御恵みの世界なのだ、ということかも知れません。とにかく、彼ら先に死んだ人々の方が優先するのです。

 何故、彼らの方が優先なのか。・・・私にはわかりません。ただ、ここでパウロが言いたいことは恐らく、イエス様と共にいる、という点に関しては、彼らの方が確実なのだ、ということではないでしょうか。・・・私達はまだ世の荒波を越えて歩まなくてはなりません。しかし彼らはすでに神様の御もとに永遠の安らぎを得ています。

 そして、その結果、一つのことに思い至ります。

 それは、16〜17節の再臨の光景ですが、事の起こる順番として、主イエスの再臨、そして死者の復活、そして生きている者が挙げられる、という順になっているために、全ては、この地上に起きることとして体験される、ということがわかります。

 つまり、死者の復活というようなことは、想像していただけばわかると思いますが、ものすごい光景です。キリストの来臨も、ものすごい光景です。

 それが、どこか遠い天の上で起きるおとぎ話なのではなくて、全て地上で、この世で起きる、正に、私達の世界に関わる神様の御業なのだということを、この教えは証言しているのではないでしょうか。

 とすると、私達は、その時起きることの、いわば前味を、やはりこの地上で味わうことが出来る、という面もあるわけです。

・・・イエス様が私達と共にいる、とか、すでに先に召された人達が今も生きているのだということを、確信出来るとか、復活と再会を信仰によって先取り出来るとか、そういうことが、私達には許されている。

 そんなことを考えていくと、どんなにこれが、私達にとっても慰めとなる、聖書の約束であるか、味わえるように思います。

 私達は、今日、召天者記念礼拝を持っています。

 これは、過去において、地上の歩みを共にした仲間達のことを偲ぶだけのためのものではありません。あるいは、大切な人を天に送った私達の心を恒例の儀式で癒そうというのでもありません。

 もっとはるかに確実なことが私達には約束されているのです。主イエス・キリストの十字架と復活によって保証された救い。また、再臨の約束によって保証された、クリスチャンの復活、救いの完成。・・・その確実な希望と慰めを、この礼拝で確かめて、神様に感謝したいと思います。


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