1992・10・29

第17講 敬虔主義

                                  

 * A.Ritschl : Geschichte des Pietismus.3 Bde.1880-86.

 * H.Heppe : Geschichte des Pietismus und der Mystik in der reformierten Kirche.1879.

* W.Hadorn : Geschichte des Pietismus in der schweizerischen reformierten Kirche. o.J.(1901)

 * The Classics of Western Spiritualityのシリーズ。

 * World Spirituality. An Encyclopedic History of the Religious Quest.Vol.18 Christian Spirituality (3) : Post-Reformation and Modern.

 * W.van 't Spijker et al : De Nadere Reformatie en het Gereformmerd Pietisme 1989,'s-Gravenhage

 * W.Goeters : Die Vorbereitung des Pietismus in der reformierten Kirche der Niederlande bis zur labadistischen Krisis 1670,1911,Leipzig. 最も重要。

(1) 敬虔主義の一般的説明

 1.教理史上の敬虔主義

 敬虔主義は教理史が扱うような教理条項を立てない。したがって、教理史上では特別な場所を持たない。敬虔主義にも教理を重んじる傾向とそうでない傾向がある。普通は正統派の教理を保持する。教理を重んじない傾向においても教理を破壊するラディカルな動きを取ることはない。すなわち、敬虔だからである。

 しかし、正統教理を重んじるにしても、敬虔を重視する敬虔主義は教理主義の持つ客観主義・論理主義とは違うから、教理条項を内面化する。その際、敬虔主義の強調点と適合する特定の条項が特に重んじられることになりやすい。信仰、悔い改め、聖化、祈り、献身、善き業、完全の追求、等に関する条項である。ただし、敬虔主義においてはそれらの条項が教理として教えられるというよりも、個人に対する勧めとして与えられるから、教会のよってもって立つべき規準、あるいは正しい教会と正しくない教会を見分ける指標としての意味はずっと弱まる。教会論は敬虔主義においては軽視される。

 そこからまた、教派や教理箇条の違いを余り問題にしない包容的・協調的な態度が生まれる。正統主義において盛んである対論的理論には無縁となる傾向にある。

 さらに言うならば、教会が外的制度や教理規準を整えて存在することの意味も強調されない傾向があるから、教会から分離するケースも起こって来る(ラバディー)。その分離を差し止める力は内にない。

 2.敬虔の実践

 i)敬虔の修練は自発性によらなければならない。教会、特に領邦教会が多数者を抱えて行く態勢を取るのに対し、敬虔の修練を目指す人たちは教会内に小さいサークルを作 る。これは必ずしも分離主義ではないが、顕著に分離を志向する場合、結果としてそうなる場合、あるいは外部からそのようなものとして見られる場合がある。いずれの場合も分離を回避する積極的動機をおこすことはない。

 ii)実践として最も重んじられるものは祈祷である。それは内面への沈潜であって、表には現われず、記録としても残らないことが多い。

 iii)敬虔は内面的なものであるから、外面的な活動と結び付かないように見える。けれども、敬虔主義は瞑想と講話をしているだけのスピリチュアリズムとは違って、内心からの献身的行動を生む。敬虔主義者は事業家ではないが活動家である。愛の業や伝道を実行する。その行動を支えるのは多数者ではなく、少数の有志である。公金の負担において何かを行なうのでなく、自由献金によって奉仕を推進する。ここにも、行動する者とそれを支える者を併せたサークルが出来る。それは在来の教会とは別枠のものになる。

 iv) 聖書の繙読は敬虔主義の強調点の一つである。スピリチュアリズムではないから単なる祈りや瞑想に耽ることは許されない。

 v)敬虔であることと文筆能力とによって指導性を持ち得るのであるから、レーマンで指導者になる人が現われる。例えばユンク=シュティリンク(1740-1817)、アンナ・シュラッター (1773-1826)がある。

(2) 敬虔主義の起源

 1.改革派からの発生

 起源についての説明も種々行なわれている。中世の神秘主義や修道院の生活、宗教改革時代のスピリチュアリズム、またルターの強調した信仰に起源があると見る見方もある。しかし、その説によって系譜を跡づけることは困難なので、改革派から生まれたという見解を取っておく。上記文献のヘッペ、ゲーテルスなどの見解である。リッチルも改革派から説き起こす。なおまた、宗教改革時代の再洗派が敬虔主義の要素をもっていたのであるが、これも敬虔主義を発展させたと跡付けることは出来ない。

 カルヴァン自身敬虔を重視している。それは綱要第3篇に明確に打ち出されている。綱要は単なる神学書でなく、敬虔の養いの書である。この傾向は改革派神学者の間に引き継がれる。ピュリタンが敬虔主義の準備を果たしたと見ることが出来る。ルター自身が内面的な要素を強く持っていたことから、敬虔主義に傾く機縁があったように見られるけれども、実際はそこから敬虔主義への展開は見られない。ルターの後継者が信仰条項を教理主義的に処理したからである。ルターの中に神秘主義的要素があるが、ルター派正統主義においては神秘主義を受け継ぐことは出来ない。カルヴァンにおいては神秘主義的要素ではなく、聖霊論、信仰論、聖化論、祈祷論等の教理が充実したから、この部門において敬虔の理論が基礎付けられた。

 2.国家の宗教規制からの分離

 宗教改革は急進派を除いて国家との緊密な関係を持ったが、次第に国家権力が増大して行き、国家による教会規制、また教会の国家依存が強くなる。さらに教理の主張が多数派工作によってなされる。それらを嫌う動きが出て来る。改革派の教会機構は教会の自律に適合したものであったから、教会の中に国家との癒着を避け、自律を達成する内的動機が高まる。

 3.パーキンズ

 改革派正統主義の中では、とりわけウィリアム・パーキンズ(1558-1602)が「敬虔主義の父」と呼ばれる。彼はもと規律のない酒飲みの学生であったが、ピュリタンの教師ローレンス・チャダートンの感化を受けて回心、ピュリタンとなり、ケンブリッジの教授、また影響力の大きい説教者となる。オランダ、ハンガリーでも教える。ローマ・カトリック派、英国国教会派と激しい論争をする。厳格なカルヴィニスト、すなわち二重予定論者であり、契約神学派であり、同時に悔い改めの実、回心への熱意、聖化を強調し、良心についての神学的考察をし、プロテスタント神学者としては初めて決疑論(Casuistics、道徳の原則を実行する場合の良心の葛藤を個々のケースについて解決する措置。ユダヤ教とカトリックには道徳神学の形でこれが行なわれるが、プロテスタントでは殆ど扱わない) を論じる。実際的な信仰生活では、神の御名をみだりに唱えない、聖日厳守、贅沢禁止、ダンス、バレーの禁止、等を強調する。

 4.エイムズ

 パーキンズとピエール・ド・ラ・ラメーPierre de la Ramee(ラムス、アリストテレス主義を取り入れた平信徒神学者、ソルボンヌの哲学者、殉難者、1515-72)の影響を受けたウィリアム・エイムズ(アメシウス)(1576-1633)を通じて敬虔主義はオランダに入り、反アルミニウス主義と敬虔主義は結合する。エイムズがロッテルダムに来たのは1610年であり、以後オランダで大きい影響を与えた。「神学精髄」(メドゥラ・テオロギアエ)は多くの読者を得たが、主著は良心論であり、パーキンズに続いて決疑論を考察した。正統主義ではあるが、神学は実践的であり、経験主義的である。

 5.オランダの正統主義改革派神学のうちの敬虔主義

 オランダでは正統主義の時代のことを宗教改革の徹底の時として評価し、これを「ナーデレ・レフォルマシー」と呼ぶ。(nader = further)。このナーデレ・レフォルマシーの重要要素として敬虔主義がある。ウーデマンス(1581/2-1649) 、W・テーリンク(1579-1629)、ア・ブラーケル (1608ー1669)、S・オーミウス(1630-1707) 、A・ヘレンブルック(1658-1731) 、F・A・ランペ(1683-1729) などは、改革派正統主義の指導者であるとともに敬虔主義の進展に寄与した。G・ヴォエティウス(1589-1676) も敬虔主義に関して大きい感化を残し、ラバディーはその感化を受けるが、後に対立する。

 6.ヴォエティウス

 敬虔主義の特別な主張をしたわけではないが、その牧会の業と神学的著作の中に敬虔の重視がある。学問と敬虔の双方を重んじることを強調した。敬虔の修練のために特別に書物を書いた。Ta askeetika sive Exercitia Pietatis.1664.

 7.ラバディー

 ボルドー、パリ、アミアンのジェスイット司祭ジャン・ド・ラバディー(1610-74)はカルヴィニズムからも、ジャンセニズムからも感化を受け、モントーバンで改革派に改宗する。ジュネーヴにいる時にシュペーナーも来訪し教えを受けた。のちオランダに行き、敬虔主義的指導を与え、教会から分離し、家の教会を作る。個人主義的・神秘主義的要素は他の敬虔主義者と異なる。

 ラバディーから教えられたシュペーナーを経由して敬虔主義はドイツに入り、三十年戦争後の霊的に疲弊した教会に受け入れられる。正統主義思想は霊的涸渇を癒すことが出来なかったからである。そして、ドイツのルター派の中で発展した。ただし、敬虔派はドイツでは異端視されることが多かった。

 8.ドイツにおける発展

 敬虔主義が、改革派ピュリタニズムのイギリスやオランダよりも、ルター派のドイツにおいて根を下ろしたのは、これを成育させる土壌がそこにあったからである。すなわち、改革派が持つ論理的明晰性や論理の徹底は敬虔主義とは最終的には馴染まない。また、ドイツに残っていた中世的な神秘主義傾向、修徳の志向、ルター主義の信仰論の内面的傾向がこれを育てた、あるいはこれらが敬虔主義によって復興したと言えよう。

 敬虔であることは改革派でも共有出来るが、敬虔主義的であることは改革派には困難であった。ここには特定の価値体系があるからである。

(3) ドイツルター派の敬虔主義

 1.シュペーナー

 フィリップ・ヤーコプ・シュペーナー(1635-1705)はエルザスの生まれで、シュトラスブルクで神学を学んだ。若い時からヨーハン・アルント(1555-1621)のルター派的神秘主義の書「真のキリスト教」(1606/09)や、ピュリタンのリチャード・バクスターの書物を読んだ。学問修業のために改革派神学と接触し、スイスを旅行中ジュネーヴでラバディーと出会う。64年に神学博士、66年からフランクフルト・アム・マインの牧師、この期間に敬虔主義運動を始める。86年にドレスデンに行って宮廷牧師となるが、サクセンの宮廷との関係が悪くなり、91年にブランデンブルク選挙侯に招かれてベルリンの牧師となり、ベルリンで没する。

 「コレギウム・ピエタティス」という交わりを開く(collegium は学校ではなく、同輩の集まりという意味)。また、「ピア・デシデリア」という書物を著わす。この書の内容はフランクフルトにいた時に語ったものである。

 彼の強調したのは、聖書の学び、万人祭司主義の回復、再生、知識でなく隣人愛に現われる信仰、神学的議論を避けること、牧師の修練として敬虔文学を学ぶこと、説教が聴衆の覚醒を呼び起こすことなどで、特に新しいことは主張されていない。

 彼の影響はドイツで大きかったため、彼自身も、彼の同調者も攻撃されることがあり、1690年にライプツィッヒで彼の同調者が追放された。

 2.フランケ

 アウグスト・ヘルマン・フランケ(1663-1727)はリューベックの生まれ、エルフルトとキールで神学を学ぶ。語学の才能に恵まれていた。84年ライプツィッヒのヘブル語教授となり、ここで教える間にシュペーナーの感化を受けて回心するが、敬虔主義の故に追放される。1691年にハレ大学の東洋語の教授になって、聖書研究を普及させる。98年に初めて神学教授になる。ハレに貧民学校を開く(1695) 。次いで各種の学校が開設される。敬虔主義の実践活動の一つであるが、教育思想史的にも大きい意味を持った。フランケには教育学の著作がある。書籍普及のために書店を開き、1695年以来、月刊聖書研究雑誌「オブセルヴァティオネス・ビブリカエ」を発行する。

 ハレ・ミッションの海外伝道は1704年ツィーゲンバルク(1682-1719)とプリュッチャウ(1677-1747)をインドのトランケバールに送り出す。そこはデンマークの領地であったがデンマーク国内には海外伝道に赴く牧師がいなかったため、ハレに人を求めたのである。彼らはコペンハーゲンで任職を受けて派遣されたのであるが、敬虔主義者であるという理由で任職はなかなか困難であった。

 3.ツィンツェンドルフ

 ニコラウス・ルートヴィッヒ・ライヒスグラーフ・フォン・ツィンツェンドルフ(1700-1760)はドレスデンの生まれ。オーストリアの貴族、ハレでフランケの学校で教育を受けヴィッテンベルクで法学を学ぶ。ヴィッテンベルクはルター派正統主義の牙城になっていて、正統主義の影響も受け、敬虔主義と正統主義の統一を試みもするが、これは不成功に終わった。

 1719年から翌年にかけて西ヨーロッパに旅行し、改革派神学、ローマ・カトリック、教会から分離したキリスト教グループと接触し、キリスト教の理解を広くする。71年からザクセンの政府に勤務するが、ライプツィッヒの自邸で敬虔主義の集会を開いた。

 1722年にベルテルスドルフに地所を購入し、メ−レン(モラヴィア)から逃れて来たフス派のボヘミヤ兄弟団の亡命者を受け入れ、キリスト教的コロニーを作り、これをヘルンフート(主の御守り)と名付ける。27年には政府の仕事を辞してヘルンフートに入り、この村の霊的指導者となる。その後チュービンゲンで神学を学び、34年ルター派の監督として按手を受けた。これによってヘルンフートの教会は公に認知されることになるが、チェッコの兄弟団との組織的関係は切れてしまう。

 兄弟団(Unitas fratrum) について触れて置く。これは15世紀のフスの改革運動の流れを汲むチェッコ人教会である。チェッコ民族はスラブ系であるが、ローマ・カトリックに属し、文化的にも西欧系になる。ドイツ帝国に属するベーメン(ボヘミア)王国とその東に接するメーレン(モラヴィア)辺境伯領が彼らの生活空間である。フスの運動はベーメンを中心とした。宗教改革時代に兄弟団はルター派とも関係があったが、より深く改革派と関係を作り、「コンフェッシオ・ボヘミカ」は改革派系のものである。三十年戦争以後迫害は厳しく、亡命する者も多かった。この派ではヤン・コメンスキー(コメニウス)(1592-1670)が著名な指導者である。ツィンツェンドルフが兄弟団のコロニーを作ったヘルンフートはザクセン王国の南、メーレンの国境に近いところにある。兄弟団の讃美歌が編纂され、ツィンツェンドルフ自身も讃美歌を多く作る。

 1736年にはザクセンから追放されて改革派領のイーゼンブルクのヴェッテラウに本拠を置く。56年にヘルンフートに帰還する。

 イギリスには何度か行き、英国教会とは公式の関係を持つ。こうしてヘルンフート兄弟団をエキュメニカルな関わりに置いた。そうして、海外伝道を行なった。兄弟団の伝道が各地で行なわれる。

 ハレのフランケとは親しい交わりがあったが、その後継者とは決裂する。ツィンツェンドルフはハレの敬虔主義が固定化していると批判し、ハレの側では彼が神秘主義に傾き過ぎ、ローマ・カトリックや東方教会をも包含する教会再一致の夢を追うと批判する。ルター派正統主義も彼に対しては批判が多かった。

 ツィンツェンドルフの思想としてはハレの敬虔主義者からも批判されるような行き過ぎた面もあったが、それはこの運動全体としての強調点ではない。全体としては穏健で、エキュメニカル、聖書が重んじられる。

 聖書の重要視として、彼の始めた「ローズンゲン」は今日もなお広く用いられている。これは聖書から短い句を抜き出して日毎の聖句として読むものである。

 4.ベンゲル

 ヨハン・アルプレヒト・ベンゲル(1687-1752)は敬虔主義の部類に入れないのが普通であり、またそれが正しい。彼は上に述べた敬虔主義の系列に属さない。しかし、一種の敬虔主義と言うことは出来る。シュヴァーベンの敬虔主義の開祖である。

 ヴュルテンベルクのヴィンネンデンに生まれ、チュービンゲンで学び、1713-41 デンケンドルフの神学校で教え、41年にヘルブレヒティンゲンの、49年にアルピルスバッハの教会監督になる。

 研究者としては新約聖書の原典研究が専門であって、これをもとにして後年の註解書が書かれた。神学的に特別な主張はしなかったが、敢えて特徴付けるならば「聖書主義(ビブリチスムス)」である。思想的には柔軟であった。

 代表的な書物として「グノーモン・ノヴィ・テスタメンティ」(1742) がある。これはギリシャ語原文の一句一句に短い注釈を付けたもので、学問的にしっかりしているとともに、テキストの一句一句に全身を打ち込む敬虔な読み物である。聖書の真実性の証明をひたすら聖書の内部から汲み取ろうとする。これは同時代と後代に大きい影響を与えた註解書である。

 ベンゲルはこのほかにヨハネの黙示録についての書物を何冊も書いている。コッツェユスの影響であろう。彼はこれに打ち込み過ぎ、千年王国の始まりは1836年6月18日であると計算した。

(4)イギリスのメソジスト主義

 1.ウェズレアン・メソジズムとカルヴィニスティック・メソジズム

 メソジズムにはウェズリーの唱えるものと、ホイットフィールドの唱えるものとがあ る。前者は万人救済主義であり、この系列ではカルヴィニズムを極端に嫌う。後者は予定論に立ち、カルヴィニスティック・メソジズムを名乗る。その他の点に関しては両者は共通している。聖なる生活に励み、伝道に熱心である。

 ちなみに、バプテスト派においても予定論を奉じるパティキュラー・バプティストと万人救済を唱えるジェネラル・バプティストが対立した。伝道に関しては前者の方が熱心である。

 2.ウェズリー

 ジョン・ウェズリー(1703-1791)は国教会牧師の子であるが、祖父は父方も母方もピュリタンの非国教主義者であった。彼の運動は初め国教会の中で行なわれ、国教会から出ることを考えてはいなかった。しかし、この派の使命とする大衆伝道のためには、多数の伝道者を必要とし、国教会の要求するオックスフォード、ケンブリッジの卒業生を充てることは不可能であるため、国教会の認めない者を教職として採用したために分離した。

 オックスフォードでホイットフィールドと知り合い、弟のチャールズなどとともに、祈りとギリシャ語新約聖書の研究と、自己検討のためのグループを組織する。これは「ホーリークラブ」とあだなされる。アメリカのジョージアにインディアン伝道のために派遣されたが、失意のうちに帰国する。この時、アメリカでメーレンの兄弟団のグループに触 れ、その素朴な信仰に大きい感銘を受けた。帰国後、メーレン兄弟団のベーラーの集会に出ていた時、回心を経験した(1738年5月)。それは、チャールズの回心の3日後のことである。この後ヘルンフートとツィンツェンドルフを訪問し、指導を受ける。

 帰国して聖書のいう聖潔をイギリス全土に広める運動を始める。39年4月に初めて野外説教会を開く。これはマス・エヴァンジェリゼーションの嚆矢であり、回心者を獲得するという方法も新しいものであった。

 このようにして獲得された回心者を信仰的に維持するため、これをグループにし、それらのグループを全国的に組織する運動を展開した。これらのグループにおいて初期に重要であったのは聖晩餐であったが、多数のグループにおいて聖晩餐を執行する牧師は足りない。それで、十分教育を受けていない人を牧師に任職し、このために国教会から離れなければならなくなった。運動としての組織がそのまま教会組織になり、国教会と同じ監督制度を取る。

 メソディストの名はオックスフォードで集会をしていた初期の頃に付けられたあだなであって「聖書にある通りのメソッドで生活しようとする者たち」を意味する。これがホイットフィールドとウェズリの回心後正式の名称として用いられる。

 メソディストのグループではジョンの弟チャールズ(1707-1788)が作った讃美歌が用いられて運動を盛りあげた。チャールズ・ウェズリーはイギリスで最も有名な讃美歌作者である。

 ウェズリーの神学で特色となるのは万人救済、したがって予定の教理の否定と、聖潔、さらにはキリスト者の完全の主張である。しかし、これだけでなく、回心を強調するために感情に訴える方法があり、主観的・感情的性格が付きまとう。

 聖書は終始重んじられていて、説教は聖書に即したものである。彼自身も聖書略解を書いている。これはベンゲルの「グノーモン」の翻案である。

 3.ホイットフィールド

 ジョージ・ホイットフィールド(1714-1770)はオックスフォードでウェズリー兄弟と知り合い、運動を始める。国教会の説教者となって非常に熱烈な説教をした。アメリカに行っているウェズリーから招きを受けて渡米し、彼らの帰った後も41年までアメリカで伝道を続けた。

 生涯説教を続け、通例一週間に20回説教した。最後の説教を終えて間もなく死んだ。説教集以外に残された書き物はない。弁舌に優れた人であった。

 ウェズリーは多くの人々への伝道はアルミニウス主義の立場に立ち、万人救済説でなければならないとしたのに対し、ホイイトフィールドはカルヴィニズムの予定論を堅持したため決裂した。彼の教派はカルヴィニスティック・メソジズムを名乗る。後の時代にこの派は長老派と合同する。

 

(5) 敬虔主義の神学

 1.聖書研究

 敬虔主義の中では聖書が重んじられる場合が多い。すなわち、敬虔の養いのため聖書に優るものはないからである。が聖書研究を特に重んじたのはヴュルテンベルクの敬虔主義で、その代表者はヨーハン・アルプレヒト・ベンゲルである。

 教理条項よりも聖書が強調される傾向である。聖書が敬虔の養いの糧として読まれるのは正しいが、文脈から自由な聖書引用が行なわれるようになった。

 2.回心、聖化、完全

 敬虔主義における重要教理はこれらである。義認論は後退している。信仰者の業としての愛の行ないが強調されるから、信仰のみ、という点も稀薄になる。特に問題であるのはウェズリーのキリスト者の完全の教理である。

 3.召命、献身、伝道、奉仕

 実際生活に関しては召命を受けることが出発点になり、それに答えて献身することが強調され、献身の実践は伝道や奉仕である。 

 4.霊的生活の諸段階                              霊的生活の奨励のために目標が設定される。より高い目標設定のためには段階を示すことになり勝ちである。これは功績思想にすり替えられる危険がある。 

 5.教理の扱い

 教理を必ずしもないがしろにするものではない。初期には正統主義と緊密に結び付いていたから、教理は重要であった。後には教理の保持は弱まる。 

(6) 敬虔主義の実践

 1.伝道

 内国伝道としては信仰的に眠っていたキリスト者を目覚めさせる回心に力点を置く。そのような伝道はアメリカとイギリスにおいて始まる。ドイツは社会事情がことなったの で、内国伝道が盛んになるのは次の世紀である。イギリスでは当時生じ始めた無産者階級の中に信仰を鼓吹することが出来た。

 外国伝道はプロテスタントにおいては敬虔主義が始めた。陸続きの所としてはロシア、トランシルヴァニア、ハンガリー、等がある。ヨーロッパ・プロテスタント最初の海外伝道の宣教師はハレから送り出される。もっとも、ヨーロッパ・キリスト教の異教徒伝道としてはカトリックのものが古くからあり、プロテスタント国でも植民地の原住民に伝道することは支配者の義務という観点から行なわれていた。

 ただし、この時ハレの敬虔主義グループに外国伝道の明確な理念があったわけではな い。デンマーク王の要請によるのであり、デンマーク王も伝道の理念を持っていたのではない。

 2.教育

 敬虔主義は教育面で成果を挙げた。実践的には多くの学校を開設したし、教育理論を立てる人もいた。正統主義のように教理が主要ではないから、教育は全人的なものを目指 す。

 3.愛の実践

 これも次の世紀のディアコニー運動を俟たないと組織的にはならないが、その基礎づくりが行なわれた。フランケとツィンツェンドルフがこの面で大きい進展を示した。

 4.文書活動と讃美歌

 敬虔主義は神学を主張するのではないから、神学的論理を用いた文書は生み出さない。しかし、それ以外の形式の文書を数多く世に送った。

 宗教改革においてキリスト教的文書が飛躍的に普及したが、その後の時代に正統主義は専門家の議論になったので、広く読まれる文書は質・量ともに低下する。敬虔主義は知的運動ではないが、主義の普及は文書による場合が多い。したがって、文書の著作、普及、読書が重要である。

 文書として重要なのは、敬虔文学、あるいはエルバウリッヒな文書である。宗教改革時代には説教、信仰問答、小論文がそのままエルバウリッヒな作用を演じた。次の時代には理論が煩鎖になったため、論証にはなっても信仰を養うものにはならない。敬虔主義は論理性を重要視しない。読む者の心に働きかける文書を生み出そうとした。宗教詩、讃美歌が多く作られる。

 運動としての敬虔主義は文書を生み出すだけでなく、それを頒布する機構をも作った。

      讃美歌は16世紀にはジュネーヴ詩篇歌が質量ともにルター派の讃美歌を凌

      駕していた。詩篇は150篇全部を歌わなければ意味がないものであるか

      ら、全編を歌えるようにして持っている必要があった。したがって比較的早

      い時期に(1562) ジュネーヴ詩篇歌集は完成した。イギリス、スコットラン

      ドでは別の詩篇歌が作られたが、最も広く行なわれたのはジュネーヴ詩篇歌

      である。一旦完成すると改定を加える余地はなかった。

      17世紀になってルター派の中で讃美歌の新作が盛んになる。三十年戦役の

      時代ドイツ国内は荒廃し、霊的にも疲弊した。その人々を慰める歌が作られ

      る。それを支えたのは必ずしも敬虔主義ではない。敬虔主義の部類に入らな

      い人も讃美歌を作っている。最も有名なパウル・ゲルハルト(1607-1676)や

      ヨハン・クルーガー(1598-1662)は敬虔主義者ではない。ヨハン・ゼバステ

      ィアン・バッハ(1685-1750)も敬虔主義には属さない。敬虔主義者で讃美歌

      を多く作った者はハレのフライリングハウゼン(1670-1739)である。1704年

      と1714年に讃美歌集「ガイストリッヘス・ゲザングブーフ」を発行した。現

      行讃美歌16番に収められているのは、その讃美歌集から取ったもので、彼の

      作曲になる。作詞者のクラッセリウス(1667-1734)もフランケの弟子であ

       る。それにツィンツェンドルフがある。また改革派の敬虔主義者にはヨアヒ

      ム・ネアンダー(1650-1680)、フリートリッヒ・アードルフ・ランペ(1683

      -1729)や、ゲルハルト・テルシュテーゲン(1697-1769)がいる。


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