1992・10・01

第14講 予定論論争の進展

 * R.A.Muller : Christ and Decree.1986.

 * C.Bangs : Arminius.1971.

 * B.Armstrong : Calvinism and Amyraut Heresy.1969. 

 * J.S.Bray : Theodore Beza's Doctrine of Predestination.1975.

(1)カルヴィニズムにおける予定論の位置

 1.一般的考察

 16世紀とそれに続く時代の人々は予定論についての深い関心を持っていた。救いの確かさという観点から予定の明確な把握が求められていた。宗教改革以前からそうであり、初期ルターにおいても神学思考における強い動機になっていた。ただし、宗教改革以前及び宗教改革初期においては予定論は理論化されていない。それゆえ、カルヴァンとその弟子たちが予定を理論化して打ち出した時、大きい反響があった。

 カルヴァンは予定を論じる際、この理論の持つ危険を知っていたため、極めて慎重に取り扱った。それは別の面から言えば、まわりくどく、分かりにくさを感じさせるものであった。また、カルヴァンは秘義としての予定を知的に解明することを宜とせず、知り得ない多くの領域を敢えて残した。

 ところが、カルヴァン以後の改革派神学においては、予定を明確化するために必要な関連項目を教理条項として定立するとともに、理論を単純化して分かりやすくすることと、分からない領域を狭めることに努力が向けられる。

 また、カルヴァンは綱要の中で予定論を第3篇の終わりに置き、摂理論を創造論の中で扱い、両者を別個の事柄として把握するが、その把握が徹底せず、また、両者を一つのこととして見ているところも少しある。そのため、カルヴァン以後においてはこの二つを一括して扱う傾向が強くなる。カルヴァンも「聖定」(decretum) という言葉を用いたが、カルヴィニストたちは聖定概念を強化し、これを予定の上位概念とし、この中に予定と摂理を含める考えになる。

 予定論とともに神学体系における上位概念として聖書の権威の概念が重視され、権威の理由である聖霊の霊感が強調されるようになる。また、改革派の中では契約神学が力を持って来る。これについては次回に述べる。

 2.形式論理の強化

 初期においてはカトリックとの対論のうちに当該教理が発展し、局部的に少しずつ補充された。したがって、いわば継ぎはぎの教理体系になる。次の時代の人たちはカルヴァンのキリスト教綱要のような書物を尊重し、良く読んだのではあるが、そのような論述形式を踏襲しようとは思わない。形式をもっと整えたいと考える。

 論述形式を整えるためには、論理的に整備しなければならない。そのため、初代の改革者があまり重要とは考えなかったアリストテレス論理学を重要視する。

 3.ド・ベーズにおける予定の図式

 前講で述べた通り、カルヴァン以後、神学体系の中で予定論の占める位置が大きくなり、単純化され、図式化される。神学が形式論理に即して整えられるようになり、したがって原理的と見られた教理条項が体系においては先に取り扱われる。

 しかし、ド・ベーズはカルヴァンを越えて予定論を詳しくしようと思っていたのではない。予定の神秘的な面を強調している。しかし、ド・ベーズはカルヴァンが厳密に聖書の教えの枠内に留まろうとしたのに対し、論理的精密さを求める論法を取った。そのために永遠の聖定が最も基本的なものとして最初に扱われ、堕落前予定を考えるようになる。

 4.改革派信仰告白における予定論

 ジュネーヴ教会信仰問答においては予定論が論じられていないが、それは予定論を教理の必須条項でないと見ていたことを意味するものではない。すでに信仰の手引きには予定論が収められている。一般的に言って改革派の整った信仰告白においては予定を取り扱うのが当然とされていると理解したい。

 その整った信仰告白の初期のものとして1536年の「第一スイス信仰告白」(Art.10:Wie

Gott den Mentschenn,durch sin Ewigen Ratschlag,wyderbracht habe.──ここでは標題

に予定論の用語が用いられるが本文の中にはない。なお、この項目は1534年の「バーゼル信仰告白」第3項で「我々に対する神の配慮」を論じた位置に相当する。そこではSorge という語が用いられるだけであった)と同年のジュネーヴの「信仰の手引き」(13. 選びと予定について。──なお、これと対になっている信仰告白の中にはこの項目はない)がある。

 ジュネーヴで予定論が強調されるようになったのは、反対論があり、反対派は予定論を切り崩すことによって教理の全面的な否認ないし弱体化に至ろうとする自由思想家であったから、危険を予期したためであろう。

 予定論は本来、旧約の基本的教えであるイスラエルの選びに基礎を置き、したがって恵みによる選びという点に重きを置くが、上述の反対論に出会ったために、強化され、二重予定(救いへの選びと、滅びへの遺棄)として規定される形式を取るようになる。ジュネーヴ以外の地でも、例えば第2スイス信仰告白でもはっきり論じている(第10章:神の予定と聖徒たちの選び。ただし、この条項には二重予定は積極的には言われていない)。

 1559年のフランス信仰告白第12条は、永遠の変わることなき計画に基き、ただ慈しみによって、業を考慮することなく、キリストにおいて選び、他の者を捨て置きたもうた、と二重予定を言う。1560年のスコットランド信仰告白は、第8章で選びを取り上げる。これはキリスト論の文脈においてであるから、二重予定は論じない。予定論にやや関連あるのは、4章の約束の啓示、5章の教会の保存である。1561年のベルギー信仰告白第16条、これは二重予定を示唆するが若干弱い。すなわち、こうである。「我々は信ずる。アダムのすべての子孫は最初の人間の咎によって滅亡と破滅に陥ったので、神は御自身をそのありたもう如く、憐れみ深くかつ義なるお方として示したもうた。憐れみ深くとは、永遠の変わることなき計画にかなって、恵みにより、その行ないを顧慮することなく、我らの主キリスト・イエスのうちに選びたもうた者らをこの滅亡の中から救い出し、保ちたもうからである。そして義というのは、それ以外の者をその陥っている堕落と滅亡の内に残し置きたもうからである」。1566年の第2スイス信仰告白の予定の条項については上に述べた。1563年のハイデルベルク信仰問答は予定の項を持たない。しかし、キリストの再臨の項の中で「彼は御自身と私の敵を永遠の罰に投げ入れ、私をすべての選ばれた者たちとともに御自身の天の喜びと栄光のうちに迎え入れて下さる」という。

(2)アルミニウスの疑問とレモンストランティアの発表

 1.論争の発端

 アルミニウス(c.1559-1609)はオランダのユトレヒトとレイデン、またドイツのマールブルクで学んだ後、1581年奨学金を受けてジュネーヴに行き、ド・ベーズのもとで神学を修め、更にバーゼルに留学する。帰国の後1588年アムステルダムの牧師となる。

 ディルク・コールンヘールト(1522-90)は著名な文筆家であるが、予定論について疑問を提出した。教会はこれの解決のためにアルミニウスに研究を委嘱したが、アルミニウス自身が予定論に否定的になる。こうしてアムステルダムの牧師職を辞してレイデン大学に移り、そこで予定論に批判的な講義をする。

 この見解に対し同じ大学の教授フランシスクス・ゴマルス(1563-1641)が反論を加え、論争が起こる。

 2.レモンストランティアの発表

 アルミニウスの死後1610年、彼の同調者たちは5か条のレモンストランティア(反対意見書)を発表、論争を巻き起こす。アルミニウスの跡を継いだのはその弟子シモン・エピスコピウス(1583-1643)であった。このグループの指導者は、アルミニウスの友人ヨハンネス・ウーテンボヘールト(1557-1644)である。彼もジュネーヴでド・ベーズに学んだ人である。

 レモンストランティアの内容は5つの項目からなる。項目は次の通りである。

    i.神は御子イエス・キリストを信じ、信仰の従順に留まる者に救いの決定を適

      用したもう。ヨハネ3:36。

    ii. キリストはすべての人の贖いのために死にたもうた。ヨハネ3:16,2:2。

    iii.聖霊は真実に善なることをしようとしている者を助ける。3、4項は一括し

      て扱われる。ヨハネ15:5, 使徒行伝7その他。

    iv. 神の救いの恵みは不可抗的ではない。

    v.キリスト者が恵みから脱落することはあり得る。8か条。

 4.レモンストランティアをめぐる論争

 激しい論争が起こったのは、オランダ教会のこれまでの信仰規準であるハイデルベルク信仰問答とベルギー信仰告白では、先に見た通り、この問題の決着をつけるだけの確定的な言い方をしていなかったからである。

 それでは既成の信仰規準に則っていたならば、どちらの決定もあり得たということになるのか。そうではない。レモンストランティア派はこれまでの線から逸脱した自由思想の方向に向いていた。例えば、アルミニウスの後継者エピスコピウスはアルミニウスより遥かに遠くに行き、二重予定を否定するのみならず、選びも否定し、三一論も象徴的なものとしてしか認めず、キリストは道徳的模範であると見るようになって行く。そのような要因を内に含んだ思想であった。

 アルミニウスに論争を挑んだ代表者ゴマルスはオックスフォード、ケンブリッジ、ノイシュタット、ハイデルベルクで学んだ。当時レイデンの神学教授であった。1603年から論争をし、1614-18 の間フランスのソーミユール神学校で教え、フロニンヘンの神学教授として呼び戻され、ドルトレヒト会議の議員となって活躍した。彼の神学的立場はスープララプサリズム(堕落前予定説)であるが、会議はその立場を認めることはしなかった。

(3)予定論論争とその周辺

 1.オランダの政治情勢と予定論論争との絡み合い

 国内を二分するほどの大きい論争になったから、それだけでも政治問題であったが、神学と必ずしも関わりないと思われる政治上の二つの立場がこれに結び付いた。すなわち、当時のオランダの政治状態は、独立がまだ完成せず、同じ独立派だが総督(stadhouder) オランイェのマウリッツ(1567-1625)と、議会の議長ヨハン・ファン・オルデンバルネフェルト(1547-1619)が対立していた。前者は正統主義にくみし、後者はレモンストランティア派を支援していた。国内の紛争が余りに大きいので、論争を沈静させるため、1618年にオルデンバルネフェルトは逮捕された。

 ドルトレヒト会議における正統主義の勝利はマウリッツの政治的勝利を意味し、その後間もなくオルデンバルネフェルトは死刑になる。

 2.アルミニウス主義とエラストゥス主義

 上の事情は正統主義が権力と結び付いていることを示すかのようであるが、事実はその逆であり、アルミニウス派には教会を国家権力の下に置き、国家の管理のもとで教会の規律を緩和したものにしようとするエラストゥス主義が入っている。

 この考えはアルミニウスにも、その後継者、同調者にも共通する。法学者として有名なフーゴ・グロティウスもこの考えである。したがって、アルミニウス主義はチューリッヒの人文主義的傾向の系列にある。

 3.アルミニウス主義と自由思想

 アルミニウスがただちに異端者であると決めつけることは出来ない。彼自身に関しては自由思想的傾向があるが、意図的に正統信仰を離れようとはしていないと見られる。彼はまたカルヴァンを尊敬し、その聖書註解を最高のものと評価するような人である。

 彼によれば予定には四つの意志決定がある。第一はイエス・キリストの選びである。第二は教会の選びである。第三は手段の選びである。手段とは悔い改めと信仰である。第四は個々人の選びである。彼のゴマルスに対する批判は予定の批判というよりは堕落前予定の主張の批判である。

 それでは、アルミニウスは健全であって、彼を批判した人のほうが偏狭であったのか。アルミニウスその人については誤解を改めるべき点が多々ある。しかし、少なくとも、彼の説に集まって来た人たちは自由思想家であった。その点で彼と彼の追随者とを別に扱うべきかも知れない。また、彼の説は予定論の行き過ぎを是正するものというよりは、予定論を結局解体する方向に向かっていた。

(4)ドルトレヒト会議とその規定

 * G.P.Itterzon : Franciscus Gomarus.19301,19792

 * W.van 't Spijker et al.(ed.):De Synode van Dordrecht in 1618 en 1619.1987.

 1.会議の経過

 ドルトレヒトにおけるオランダの教会会議はそれ以前にも1574年、1577年、1578年に開かれている。オランダ宗教改革の歴史においてはそれらはみな重要であるが、教理史的には1618年11月13日から1619年5月29日まで開かれたものが重要である。

 ドルトレヒト市は港として栄えた。この町の「大教会」を会場に会議が開かれる。会議は二部に分かれ、前半は国際会議で、後半は国内の教会会議である。国際会議にはオランダ国内の教会の各クラシスから神学教授5、牧師35、長老20名が出席したほか、ドイツ(プファルツ、ヘッセン、ナッサウ、ブレーメン、エムデン)、イングランド(国王ジェームズT世はレモンストランティアに反対であった)、スコットランド、スイス(バーゼル、ベルン、シャッフハウゼン、チューリッヒ)、ジュネーヴの改革派教会から神学者計27人が参加した。(フランスの教会にも出席が要請されたが、ルイ〓世が出席を許さなかった)。議長はヨハンネス・ボーヘルマン(1576-1637)。

 11月19日から12月5日迄の期間はプロ・アクタといって、聖書翻訳、カテキズム説教、カテキズム教育を扱う。12月6日からレモンストランティア派の主張を検討し始め、内容的論議に入ったのは12月13日であった。こうして教理のガイドラインを作る。「規定」 (Canones,Leerregels) と呼ばれる。各クラシスから送られた代議員の多くは反レモンストランティア派であり、少数のレモンストランティア派を代表したのはエピスコピウスであった。彼らは自分たちの見解を開陳する機会を与えよと主張を繰り返したが、同等の立場で論争することはなく、多数派が少数派を裁く形になった。先のレモンストランティアを詳論した命題(Sententia Remonstrantium) が提出されたが、誤謬の拒否の項でこれが扱われている。

 国際会議の後、国内教会の会議があり、法規が幾つか定められる。オランダ教会の歴史としてはこの部分も重要である。

 2.ドルトレヒト規定(カノン)

 これはレモンストランティアの箇条に対応して5箇条からなる。したがって、3及び4の項は分けられていない。

 i.神の予定についての教理、18条。拒否条項9条。──予定の内容は救いへの選びと

滅びのままへの遺棄である。全ての人はアダムにおいて罪を犯し、滅びに陥っているのであるから、遺棄について神に不正はない。信仰へと召されることは恵みであり、信じないことの原因は神のうちになく、人にのみある。神の選びは人間の側にある先行原因あるいは先行条件によらず、神の愛にもとづき、キリストにおいてなされた。したがってまた、信仰を予知して選ぶのでもない。

 ii. キリストの死とそれによる人類の贖いについての教理、9条。誤謬の拒否、7条。

──キリストは全ての人の救いのために死にたもうたが、その犠牲だけでは十分でなく、

救わるべき者の信仰を条件とする、というレモンストランティア派の主張は却けられる。信仰を条件とする理解、恵みのみによる救いを否定する態度が却けられる。制限的贖罪論にはまだ至っていない。

 iii.及び iv. 人間の腐敗と回心についての教理、17条。誤謬の拒否、9条。──人間

は本来善なる者として造られたが、堕落して全く腐敗し、聖霊による再生なくしては神に立ち返ることは出来ない。この恵みは人間が欲求したり拒否したり出来るものではなく、恵みは不可抗的である。

 v.聖徒の保持(あるいは堅忍)についての教理、15条。誤謬の拒否、9条。──堅忍

(perseverantia)という言葉は人が耐え忍ぶという意味に解されやすいが、予定論の文脈においては客観的な聖霊の業であって、保持と訳したほうが良いと考えられる。予定論は永遠の救いの計画を告白するものであって、終わりまで全うされることが確認されなければならない。

 3.ドルトレヒト規定の特質

 この規定は偏狭な正統主義を提示していると受け取られていることが多いが、論者の多くは本文を読まないで、先入見によって評価している。規定の内容自体はカルヴァンの所説のほぼ祖述である。カルヴァンよりもやや明確になったところはあるが、新しい教理条項を立てているとは認められない。

 ただ、教会の教理規準としては在来の信仰告白より予定に関しては確定的な言い方をしている。

 ドルトレヒト規定の五項目が所謂カルヴィニズムの五原則(Tulip ─── total

depravity,uncondetional election,limited atonement,irresistable grace, perseve- rance of saints )であるとの通俗的説明は、学問的には価値を持たない。

(5)オランダにおける正統主義的予定論

 1.堕落前予定か堕落後予定か

 予定論が理論的整合性を追求して行く時、予定は人間の堕落の前に(supra lapsum) なされたのか、堕落の後に(infra lapsum, sub lapsum) なされたのか、という議論が出て来た。前者をスープララプサリアニズム、後者をインフララプサリアニズム、ないしはスブラプサリアニズムと言う。理論的に徹底すれば、前者が有利になるが、そこまで言い切ることが出来るかどうかのためらいがあって後者が唱えられる。

 堕落前予定論はド・ベーズの図式に始まる(Heppe,S.118f. を見よ)。それに対する堕落後予定論はUペテロ2:4 、ユダ6などを手掛かりにして考えられたものらしいが、こういうことも考えられると紹介されるだけで、積極的にこの説を唱えた人については分からない。

 堕落前予定か堕落後予定かの議論はドルトレヒト規定の中でも決着はつけられていな い。そこまで教会の教理として決定するのは正しくないと考えられたからであろう。

 2.レイデンのシノプシス

 ドルトレヒト会議の後1625年に公刊された「神学シノプシス」(Synopsis purioris  Theologiae) は、レイデンの教授ポリアンダー、リヴェト、ヴァレウス、ティスによって編纂されたもので、長く標準的な神学教科書として用いられた。52の項目について議論を交わして命題を纏めたもので、特定の傾向を抑制し、スコラ的傾向も制限されている。

 予定論に関しても穏健な立場を取る。インフララプサリアニズムに近い。

 3.ソーミュール学派の立場

 モイーズ・アミロー(1596-1664)はソーミュールの神学教授であった。ドルトレヒト会議後の改革派神学の中で特異な立場を取っていたため、彼と同僚は殆ど異端者のように攻撃された。

 ソーミュールの神学校はプロテスタント・スコラ主義が支配的な17世紀には珍しく16世紀的人文主義の学風をもっていた。スコットランドから来た神学者ジョン・キャメロン (1579-1625)の育てたものである。それはド・ベーズよりもカルヴァンに近いと表現することが出来よう。アミローはキャメロンの優れた弟子であった。

 アミローの神学が特に問題とされたのは予定論についてである。彼はアルミニウスを擁護したと言われるがそれは正確な理解ではない。アミローはアルミニウス派とは別の思考方法を取っている。その顕著な点は予定論の位置を神論に置かず、カルヴァンがしたように救済論の中に置くこと、すなわち、救いの伝達があるにもかかわらず救われない人間がいるという事実から予定を考察せざるを得ないという方法であった。

 アミローはまた、普遍的な救いを考える。

(6)スイス一致信条(1675)

 改革派正統主義の最も固定化した典型として「スイス一致信条」(Formula Consensus Helvetica)を挙げるべきであろう。これはアミロー論争から作られたものである。

 アミローの同僚カペルは旧約聖書本文の発音・句読点が初めから確定していたわけでないと論じていた。これは彼のヘブル語やタルグム、タルムード研究に基く。この見解に対してルター派からも改革派からも反論があった。

 ソーミュールにはスイスからの学生も多く学び、その影響がスイスに及ぶので、ベル ン、バーゼル、シャッフハウゼン、チューリッヒの当局はスイスにおける神学的見解の統一のために、チューリッヒのハイデッガー(Johann Heinrich Heidegger.1633-1698) 、フランソワ・トゥレッティニ(Franciscus Turretini.1623-1687)に委嘱して信条文書を作った(Formula)。

 初めの1-2 条は、旧約聖書のヘブル語テキストは子音だけでなく母音も、句読点も「テオプネウストス」であると断定する。

 3-6 条は選びの問題を扱う。7-9 条は「業の契約」。10-12 条は原罪論で、ソーミュールの教授ド・ラ・プラースの見解を批判したものである。13-16 条はドルトレヒト規定の第2章を確認したものである。

 17-20 条は救いに至る召命を扱う。21-22 条は聖霊の恵みによるのでなければ人間は全く無能力であることを言う。23条では義認、24条では契約、25条ではアミローの唱える三重の契約の説を却ける。

 最後の条でドルトレヒト規定の確認をする。

 

(7)イギリスにおける予定論と制限的贖罪論論争

 教理の論理的首尾一貫性が追求される時、原因と結果を結び付ける有効性が重要視される。そこで、予定があり、召命がある、という順序で救いが着実に進行して行くために は、召命が有効でなければならない。単なる召命でなく有効召命でなければならないことになる。

 今一つ有効性の考えから派生するのはキリストの贖いの死の有効性である。キリストの血は空しく流されてはならないはずである。したがって、有効に流された以上は、その血の注ぎに与からない者が初めから定まっていたことになる。そこで、制限的贖罪という概念が作られる。この考えについては改革派正統主義の中にも同意しない人が少なくない。

(8)ウェストミンスター会議とその文書

 * 松谷好明:ウェストミンスター信仰規準(日本基督教会神学校)

 * 松谷好明:ウェストミンスター会議の成立 1992.

 * W.A.Shaw:A History of the English Church during the Civil War and under

    the Commonwealth.1640-1660. 2 vols.1900

 * R.S.Paul:The Assembly of the Lord,1985.

1.国家教会の改革

 英国教会は国王の主導のもとに宗教改革を行なった。17世紀の革新派は王権を議会の権力によって抑えることによって国内を改革し、教会をも改革することを考える。その点では全面的な改革を志向したかのようであるが、基本的には政治権力、すなわち議会の権力の主導下に英国教会を改革することを考えたに留まる。

 ところが、議会には教会を改革する神学的知識はない。それで神学者会議を要請し、その意見を諮問する。こうして、議会から求められて、神学者たちがウェストミンスターに集まる。これは教会法に基く教会会議ではなく、政府の諮問機関としての専門委員会である。(したがって、シノッドといわずアッセンブリーという)。ドルトレヒト会議などの教会会議と同一視してはならない。神学者会議は結論を逐次議会に答申する。

 ウェストミンスター会議は教理のみならず、教会生活の全面的刷新を志し、信仰規範、礼拝指針、教会政治規準、標準的聖書解釈も決めようとした。教理史で取り上げるのは信仰規範だけである。これには、信仰告白、大小の信仰問答が含まれる。

 この後、議会の勢力が衰えたため、ウェストミンスター会議の結論を実施することが出来なくなる。それで、国教会の改革はなく、この会議を支持した教派だけが会議の成果、特に信仰規範を採用する。

 2.当時の神学の傾向

 各種の傾向があったが、議会に反対の人たちは集まらなかった。おおむね、カルヴァンの神学の影響を受けた人たちが集まったと言えるが、それにもいろいろな傾向があった。 カルヴィニズムは17世紀に至って最高の段階に達しており、その段階で作られたのがウェストミンスター信仰規範である、と言っている人たちがいる。しかし、それは慎重な検討により否定される偏った見解である。17世紀のイギリスに優れた神学がなかった訳ではないが、ウェストミンスター会議に参集した神学者は歴史に名をとどめる神学的業績を上げていない。ただ、彼らが非常な努力をもって当時の神学的見解を纏めたことは認めなければならない。

 3.ウェストミンスター信仰規範の前段階

英国教会内におけるカルヴィニズムの影響は初めはなかったが次第に強くなる。

 1595年の「ランベス・アーティクル」9ケ条は主に予定論を明確化しようとしたものである。第1条:神は永遠の初めから或る者を命に予定し、或る者を死に捨てたもうた。第2条:命への予定の能動因また効力因は信仰あるいは堅忍あるいは良き業、あるいは予定される人の中にある何らかが予知されたことではなく、ただ神のよしとしたもう意志のみである。第3条:予定された者の数は予め決まっており確定し増えることも減ることもありえない。以下略。という具合である。

1615年北アイルランドの英国教会はダブリンに会議を開いて、主教ジェームズ・アッシャーの作った「アイリッシュ・アーティクル」の採用を決議した。これがウェストミンスター信仰告白の原型になっている。全19項。102条。その第1項は次のようになっている。

聖書と三つの信条

1.我々の宗教の基礎、信仰の規範、救いの一切の真理は聖書に含まれる。

2.聖書という名のもとに我々は旧約・新約のすべての正典を理解する。すなわち、・・・・以下、書名があがる。略。

3.通例経外典と呼ばれるその他の書はそのような霊感から由来したのでなく、それゆえ教理を確立するに十分な権威を持たない。しかし、教会はこれらを人生の模範、行状の教育にとって価値ある多くのことを含む書として読む。それは次に挙げる書である。・・・・・ 書名略。

4.聖書は全ての人の一般の用のために原語から全ての国言葉に訳されなければならな い。うんぬん。

5.聖書には若干の難しい点があるが、永遠の救いのために知るべき全てのことはここから明白に読み取れる。一つの個所で暗黒の神秘のもとに語られたことで、他の個所ではもっと分かりやすく明らかに語られていないことはなく、学問のある者にもない者にも把握できる。

6.聖書は救いに必要な全てのことを含み、我々の信ずべき信仰と我々の行なうべき全ての良き義務について十分に教えることが出来る。

7.ニカイア信条、アタナシウス信条、そして通例使徒信条と呼ばれる信条に含まれる全ての各々の条項は固く受け入れ、信ずべきである。なぜなら、それらは最も確かな聖書の根拠によって証明されるからである。

 4.ウェストミンスター信仰告白の諸要素

 i.予定論あるいは聖定論を中心とする思考。聖定のもとに摂理と予定を考える。予定は二重予定である。

 ii. 聖書論を中心とする思考。聖書の権威が思考の或る意味での出発点になる。聖書は正典として確定していなければならない。聖書の権威のよって立つところは、聖霊による霊感である。

 iii.契約神学的思考。これについては次回に述べる。


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