私達の信仰の土台は、神のことば「聖書」です。これは、いくら強調してもし過ぎること はない大切な点です。 この課では、聖書をどのように読んでいったらよいかという実際的 なことと、聖書とは何かという教理的なことについて、学んでみたいと思います。
どんな本を読む時でも、その本の書かれた目的をわきまえて読まなければ、著者の伝えた いことを正しく受け止めることは出来ないでしょう。聖書も同じです。聖書は主に二つの目 的のために書かれたと聖書自身の中に書かれています。
1、私達に、「イエス・キリストに対する信仰による救いを受けさせる」ため。(テモテへ の手紙第二3章15節)
聖書の書かれた最大の目的は、聖書を読む者が、イエス・キリストを救い主と信じて救い を受け、永遠の命を得るためである、と聖書は言っています。ですからもし私達が、いい加 減な気持ちではなく、真剣に聖書に取り組むなら、必ずこの救いの祝福を受けることが出来 るのです。 一方、聖書を単なる「文学」として、とか 歴史書 古代文書 西欧文化理 解のための教養書 英語のテキスト 道徳の教科書 として読もうとする方々がいます。も ちろん聖書はこのような要素も十分備えています。しかしこれらは、聖書の書かれた第一の 目的ではありません。著者自身が、目的は上記のことであるとはっきり言っているのです。 これを忘れては、テーマを見失って「聖書読みの聖書知らず」になってしまいます。
2、クリスチャンを「すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者とする」た め。(テモテへの手紙第二3章16〜17節)
聖書は私達をイエス・キリストにある救いに導くだけではありません。聖書の書かれた第 二の目的は、救われた者を養い育てて、神と人とのために役立つ者とすることです。ですか ら、私達はクリスチャンとなったら、今まで以上に毎日熱心に聖書を読み続けることが大切 なのです。
では聖書は、具体的に私達をどのようにして、「整える」のでしょうか。 節の後半の四 つの言葉を少し詳しく見てみましょう。
ア)「教える」
聖書は私達に、真の神様はどんなお方か、そのお方と私達の関係、救いと祝福の約束につ いて、その救いを自分のものにするために私達に必要なものは何なのか、私達は神様と人へ の愛をもっていかに生きるべきなのか・・・要するに「本当のこと」「正しいこと」を教え てくれます。
イ)「戒める」
それだけでなく聖書は、私達人間の「間違い」をも教えています。私達が、聖書に教えら れたいという謙遜な思いをもって祈りつつ聖書を読むならば、必ず、自分の罪、心の中の問 題、生きる目的や考え・言葉・行動の「的はずれ」を聖書によって示されることに気付くで しょう。
ウ)「矯正する」
聖書は私達に正しいことと誤ったことが何であるかを教えるだけではありません。私達の 人生の誤ちを正してくれるのです。神のことばには、私達の人生を直す力があります。
エ)「義の訓練を与える」
更に積極的に(つまり、誤ちを正すという消極面だけでなく)、聖書は私達に正しいこと を見抜く洞察力とそれを実行する力を与えます。神のことばには、私達の人生を新しくする 力があるのです。
このようにして私達は、かつては「何が正しいかわからない」「わかっても出来ない」 「何が悪いかわからない」「わかってもやめられない」状態(罪の奴隷と聖書は言う)でし たが、今や次第次第に、正しいことをし、悪いことをしない、神と人との役にたつ「整えら れた」者への歩みを始めたのです。
これは一朝一夕で出来るものではありません。ですから私達は毎日、地道に聖書を読んで いくことが大切なのです。
では、私達はどのようにして聖書を読んでいったら良いでしょうか。
1、聖書を読む時の心構え(ペテロの手紙第一2章2節)
ア)聖書は魂の糧
私達は、自分の健康を保つために毎日食事をします。同じように、私達の魂にも栄養が必 要です。聖書を毎日しっかりと読むことが、魂の成長と健康のために不可欠なのです。これ を怠ると、気付かぬ内に、魂が飢え渇き、成長を止め、不健康な状態に陥ることになるので す。
イ)聖書を読む時の具体的な心構え
1、聖書は「神様からあなたへの手紙」です。神様が自分に何を語り掛けておられるかを考 えながら読みましょう。
2、乳飲み子が、母親のお乳を何の疑いも持たずに安心して飲むように、
神様を素直に信じて読みましょう。(「このミルクは腐ってはいないか?」などと疑って飲 むとおいしくないし、不健康のもと)
3、乳飲み子がお乳をむさぼり飲むように、聖書をむさぼり(つまり、熱心に)読みましょ う。 4、聖書から教えられたことには、従いましょう。(なすべきことを示されたらそれ をする。罪を示されたら素直に悔い改める。悪を示されたら決心してやめる。等々)
2、聖書の具体的な読み方
ア)毎日、規則正しく読む 私達は、普通毎日3回食事をして体のための栄養を取っています。同じように魂のた めにも、毎日規則正しく聖書を読んで、栄養を取らなければなりません。
日曜日の礼拝の時しか、聖書を読まないとしたら、その人は、日曜日に1回ごはんを食べ ただけで、後は一週間何も食べずに過ごすことと同じことをしていることになります。も し、一週間に1食しか食べなかったら、とても健康を維持出来ませんし、力強い生活をする ことなど期待できないでしょう。それと同じで、礼拝の時だけ聖書を読んで、力強いクリス チャン生活をしようなどと考えても、出来るわけがないのです。私達は毎日規則正しく聖書 を読んでいくことが必要です。
このために、クリスチャンは各自「ディボーション」の時(または「静思の時」)を定め て守るようにする必要があります。
これは、各自決めた時間に(朝起きた時と、夜寝る前が普通)、神様の前に一人で静まっ て、聖書を読んで神様からの養いを受け、祈って神様と交わる時間を持つのです。 「No Bible,No Breakfast.」(聖書を読まなければ朝食を取らない)とい う言葉がありますが、このディボーションを充実して守り続けることが、神様に祝福された 力強い信仰生活をおくるための「鍵」であることをよく覚えて下さい。
※聖書は、毎日3章(旧約聖書2章、新約聖書1章)読むと、約1年で全部読めます。
聖書通読を助けるための「通読表」のようなものが各種売られています。
必要な方は、牧師におたずね下さい。
イ)たくさん読む
食事の食べ過ぎというのはありますが、聖書の読み過ぎということはありません。私達 は、毎日少しずつ聖書を読んでいくと共に、時々(毎日ならなお良い)聖書を少しまとめて 読むことも大切です。
なぜかというと、例えば、新約聖書の手紙など、少しずつ読んでいると前後関係を忘れて しまって、何が書かれているのか分からなくなってしまいがちです。
手紙は一気に読んだ方が良く分かるのです。私達は誰かから手紙をもらった時に、毎日少 しずつ読む、などということをするでしょうか。特にこれが愛する人からのラブレターな ら、何十枚あっても、時間のたつのも忘れて夢中で読みふけるでしょう。聖書は神様から私 達へのレブレターですから、まとまりのある部分はまとめて読むことが良いのです。 聖書 の「章」や「節」の区切りは、後世になされた便宜的なものです。新約聖書の手紙に限ら ず、一つのまとまりごとにまとめて読んでいくことは、大切な読み方です。
ある方は、毎日5〜10章読むことを日課とすることを勧めています。
この読み方は、習慣になってしまえばそれほど苦になるものではありません。新聞を読むだ けの時間を聖書を読むことに当てればすぐ出来ることです。そしてこれを決心しますと、 「今日はさぼっても、いずれためて読めばいい」ということが出来ません(三日ためたら15 〜20章!)。それでいやがおうでも毎日読むようになるのです。こんな風に聖書通読を年に 何回か出来るようになると、聖書の内容が大体頭の中に入るようになります。(この話はあ のあたりに書いてあった、と大体思い浮かぶようになります。)聖書をどんどん読みましょ う。
ウ)好き嫌いなく読む
私達が栄養をバランス良く取るためには、何でも好き嫌い無く食べることが大切です。そ れと同じに、魂の栄養をバランス良く取るためには、聖書の全巻をきちんと読むことが大切 です。 聖書の中には、大変分かり易い所(食べ易い所)から、少々分かりに くい所(食べにくい所)まであります。ですから、初めは分かり易い所から読むことも良い でしょう(新約聖書の福音書、手紙、旧約聖書の創世記、詩篇、箴言等)。しかし、やがて は「通読」の習慣を身に付けて下さい。その際、初めは、分からない所はそのままにして どんどん読んでいって良いのです。全てが初めから分かるわけではないのでそこに引っ掛 かって通読を中断すべきではありません。やがて何度か読む内に(二度目に読むと、一度目 に気付かなかったことに色々気付きます)、また教会での学びや、信仰書、人に聞くことな どを通して、段々深く理解出来るようになってきます。
エ)みことばを自分のものにする
聖書はただ読むだけでなく、よく噛み締めて読み、自分の心に響くみことばや特に大切な みことばを暗唱し、そのようにして、次第により多くのみことばを「自分のものに」してい くことが大切です。
そのため、多くの方々が、「暗唱聖句カード」や「日めくり」、また自分のノートを作っ て活用しています。聖書にも、「その人は主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさ む 詩篇1章2節、また申命記6章6節やヨシュア記1章8節のような箇所に、みことばを 心の内に蓄え、唱えるべきことが教えられています。
また、「聖書をいつまでもきれいに汚さずにおこう」などと考える必要はありません。大 切な所、心に残った所には、どんどん線を引いたり、色を付けたり、書き込んだりして下さ い。聖書がボロボロになって初めて、みことばが自分のものになってくるのです。
1、聖書は神の霊感によって書かれた。(テモテへの手紙第二3章16節、ペテロの手紙第二 1章21節)
ア)聖書の真の著者は、神です。
創造主である神が、ご自分の救いの計画等を私達人間に知らせるために、聖書を書かせま した。聖書は神の「啓示の書」なのです。
イ)聖書の記者は、約40人の人々です。
神は約40人の人々を、聖書記者として用いて、聖書を書かせました。この中には、漁師・ 羊飼いのような普通の人達や、王・預言者・学者・祭司といった特別な地位の人達がいまし た。彼らは神様の導きのもとに、自分の個性や能力を生かして聖書を誤り無く書きました。 だから、彼らがそれぞれ違った時代に、違った場所で、互いに連絡なく、聖書の各書を書い たにもかかわらず、その内容は統一したテーマに貫かれており、矛盾が無く、調和をもって まとまっています。
ウ)聖書の書かれた目的〜前述の二つの目的をもう一度確認して下さい。
エ)聖書の対象は、「全ての人々」です。
聖書は、特定の国や民族・階級のために書かれたのではありません。聖書は地上に生
きる全ての人々のために書かれたのです。聖書は、1990年聖書協会世界連盟の資料で、 1928の言語に翻訳されています。ある本によると、毎年世界で2億冊余り発行されている と言われます。全世界の永遠のベストセラーです。
オ)聖書の中心歴テーマは、イエス・キリストです。(ヨハネの福音書5章39節)
旧約聖書・新約聖書全体を通じて、聖書の中心はイエス・キリストです。これを無視して は、聖書の理解は出来ません。イエス・キリストが聖書理解の鍵なのです。
カ)「霊感」について。
「聖書は神の霊感によって書かれた」と言う時、この「霊感」とはどういうことでしょう か。これを、「十全逐語有機霊感」という言葉で表現しています。
1.「十全」〜この言葉は、聖書の全ての部分が神の霊感によっていることを表現していま す。
※「部分霊感説」(聖書の一部分、例えば、イエスの言葉だけが霊感を受けたと考える)は 誤り です。誰が聖書を、霊感を受けた部分とそうでない部分とに分けることが出来るで しょうか。
2.「逐語」〜この言葉は、聖書の「言葉」そのものが霊感を受けていることを表現していま す。
※「思想霊感説」(聖書の霊感は「思想」に対してあったのであって、「言語」一つ一つに まで は及んでいないと考える)は誤りです。思想と言語とは切り離せるものではなく、聖 書は「み ことば」そのものを極めて大切にしています。キリスト教は「みことばの宗教」 と言われるほ どなのです。
3.「有機」〜この言葉は、神が聖書記者達の人間的な能力を生かして用いたことを表現して いま す。
※「機械霊感説」〜(神は聖書記者達を無意識・恍惚状態にして、ペン代わりに用いた。い わゆ る「おふでさき」のような考え方)は誤りです。
2、聖書には誤りが無い。
ア)聖書は、無謬・無誤。
聖書は神の霊感によって書かれたので、全く信頼でき(無謬)、また全く正しく誤りが無 い(無誤)のです。これは、神ご自身のご性質によることで、人間が実験や検証によって聖 書が無謬無誤であると判断するのではありません。
(しかし、もちろん、例えばハーシェルが言うように、「人類のあらゆる発見は、聖書に 収められている真理をいよいよ強く証拠立てる」という面があることも事実です。)
この「誤りが無い」というのは、聖書の「原典」においてのことであって、「写本」や 「翻訳」が霊感されているわけではありません。しかし、今日、研究の結果、諸写本の間の 違いは極めて非本質的部分に限られていることがわかっています。また常に、より正確な翻 訳が求められ、突き詰めれば、原語にさかのぼって聖書の意味を汲み取る必要があるのです が、私達の使用している聖書は、多くの学者によって、学問的成果の上に立って注意深くな されたもので、充分信頼するに価するものです。
イ)再度、「十全」「逐語」
「聖書は『全て』誤りの無い神の『言葉』です」 これをよく覚えて下さい。聖書は、私 達が「これは本当だ」と思う所だけが神の言葉なのではなく、全て神の言葉です。聖書の 「言葉」が神の言葉なのですから、私達にとって聖書の言葉を一部分でも勝手に書き換えた り、置き換えたり、一部分を抜き取ったりするということは、許されないことです。
3、聖書は神の完全な啓示です。
ア)「一般啓示」と「特別啓示」
神がご自身の御心や御性質を現されることを「啓示」と言います。それには二つの種類が あります。
・「一般啓示」
自然、歴史、人間の良心などを通して、神の存在・御性質は全ての人に明らかに示されて います。これを「一般啓示」と言います。しかしこれだけでは、堕落した人間は神を正しく とらえることが出来なくなりました。救いの道も、これだけでは正確に知ることが出来ま せん。
・「特別啓示」
そこで神は聖書という特別な啓示を与え、人間に、救いのために必要かつ充分な知識を提 供しておられるのです。
イ)聖書は完結しているので、人間がこれに付け加えたり、省いたりすることは許されま せん。
神について、また人間の救いと信仰と生活のために知るべき全てのことは、聖書の中に与 えられています。私達は聖書から直接明らかに知るか、聖書をもとにして正当な結論を導く かして、神から教えられるべき全てのことを聖書から受けることが出来ます。
4、聖書は究極の権威です。
ア)聖書は「信仰と生活の唯一絶対の規範」
神から与えられた聖書は、私達人間の信仰と生活の唯一絶対の規範、究極の権威です。イ エス・キリストが聖書のみことばを「〜と書いてある」と引用された時、正に聖書のみこと ばを究極の権威として扱っておられます。
私達が色々なことを判断する時、必ず考えなければならないことは、「聖書には何と書い てあるか」ということです。イエス・キリストもそのように尋ねました。(ルカの福音書10 章26節)
個人的なことで決断をしなければならない時もそうです。また例えば、教会での問題を扱 う時もそうです。その時、自分はどう思うか、世間では普通どうするか、常識はどうか、と いうことよりも、「聖書は何と教えているか」が決定打とならなければ、それはもはやキリ スト教ではありません。教会のメンバーは皆異なった背景を持ち、異なった考えを持ってい ますが、それでも一つの教会としてまとまって行けるのは、同じ聖書のみことばという共通 基盤を持っているからです。これを見失えば、教会はすぐにバラバラになります。
イ)聖書は永遠の権威です。
人間が考え出したものは相対的で、時代や、地域・文化・哲学的前提によって変わります が、神のみことばはとこしえに変わることがありません。(ペテロの手紙第一1章23〜25 節)
聖書観についてずいぶんと長々とそして細々と学んだと思われるかも知れませんが、これ はとても重大なことなのです。なぜかといいますと、現代の諸教会の状況を大きく眺めた時 に、教派を超えて信仰の一致を持てるかどうかは、この共通基盤を持てるかどうかというこ とが最大のポイントだからです。(先程は教会内の例を考えましたが、教会間・教派間とい うことを考えても、全く同じことです。)
この「聖書観」によって、教会は、いわゆる「教団」「教派」とは関係なく、大きく二つ のグループに分かれていると言うことが出来ます。
1、「福音派」
福音派は、「聖書は神のことばである」と考えています。私達はこの福音派の一員です。 福音派はこの共通の「聖書信仰」によって、教団・教派を超えて、色々な交わりや協力を 結んでいます。いわゆる「超教派」の働きがなぜ出来るかというと、この聖書信仰の共通基 盤の上に立っているからです。
2、「自由派」(リベラル。「自由主義キリスト教」をリベラリズムと言います。)
自由派の基本的考え方は、聖書の啓示よりも、人間の理性に究極の権威を認めます。(理 性の範囲内のキリスト教) 従って、聖書の記述の中に、人間の理性にとって受け入れ難い ことがあれば(例えば奇跡や超自然的なこと)、それを排除します。この場合の聖書観は、 「聖書は神の言葉を含む」ということになりますが、結局は「聖書は誤りだらけの人間のこ とばである」と見ているわけですから、聖書の内から自分にとって都合の良い所だけを受け 止めて、都合の悪い所は「理性に反する」として拒否することになります。すると結局どう なるかと言いますと、聖書の中に確かな真理など何もないことになり、全てが相対的になっ てしまいます。そして、このタイプのキリスト教は、結局「道徳宗教」(罪からの救いでは なく、単なる道徳としてのキリスト教)や「社会運動」になってしまいます。
これではもはや聖書のキリスト教ではなくなってしまいますから、第三の聖書観として登 場したのが、「聖書は神のことばになる」というものです。これは、聖書は誤りだらけの人 間の言葉なのだけれども、信仰者が神と出会う時、それが神のことばに「なる」と考えるの です。これは現在の日本では大変人気のある聖書観です。
しかし聖書を読むと、イエス・キリストは聖書に客観的な文書と
しての権威を認めていたことがよく分かります。(マタイの福音書5章17〜18節)
聖書は神のことば「である」。これが信仰の基本であることをよく確認しておきましょ う。
聖書が誤りのない神のことばだということは、理性を犠牲にして、やみくもに盲信してい るのではありません。そう信じることが十分合理的でもあることを、以下に整理しておきま しょう。
ア)聖書自身からの証拠
1、内容が一貫している。四十人余りの著者によって千数百年に渡って書き続けられた聖書 の内容が首尾一貫しており、全体として矛盾なく調和していることは驚くべきことです。
2、イエス・キリストの証言。イエス・キリストは聖書を「神のことば」として扱っていま す。
3、聖書記者の証言。聖書記者達も聖書は神のことばである、と証言しています。また、 「主はこう言われる」とは、聖書の中に頻繁に登場する言葉です。それゆえ彼らは、
・自分勝手な解釈をしてはいけない(ペテロの手紙第二1章20〜21節)、
・聖書に付け加えたり、聖書から取り除いてはいけない(黙示録22章18〜19節)と警告し ています。
4、預言の的確さ。聖書に書かれている預言が的確に成就してきたことは、驚くべきことで す。
5、内容の不変さ。聖書は、現在のものと、最古の写本を比べても、ほとんど違う所があり ません。つまり、驚くべき正確さで保存されて来ているのです。
6、聖書の歴史的正確さ。近年の考古学等の発展によって、聖書の記述の歴史的正確さが信 頼すべきものであることは、ますます明らかにされつつあります。
イ)外的証拠
1、永遠のベストセラー。これほど多くの言語に翻訳され、数多く発行されている本はあり ません。
2、社会的影響力。聖書ほど、歴史の動き、社会改革、各国の法律、道徳、人権、芸術、福 祉等々に影響を与えてきた本はありません。
3、聖書の強さ。聖書ほど、歴史上多くの敵意を受け、迫害され、抹殺を企てられた本はあ りません。しかし聖書は抹殺されるどころかかえって全世界に広まり、今日も世界十数億の 人々に「神のことば」として受け入れられています。
4、聖書を読む時に体験すること。聖書を読む時、そこに描かれた人間の姿が余りに正確で あることに驚かされます。聖書はまた、読む私達の心の奥底に光を当て、隠れた罪をも明ら かにします。また慰めを与え、励まし、生きる力を与えてくれます。それは正に、著者が人 間の創造者であることを雄弁に物語っています。
アフター・バプテスマ・クラス 復習プリント 2
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第2課 聖書を読む
問1、聖書の書かれた目的は何ですか。
問2、聖書を読む時の心構えにはどんなことがありますか。
問3、聖書は具体的にはどんなふうに読んだらいいでしょうか。あなたはどんなふうに読も うと思っていますか(または、現在読んでいますか)。
問4、聖書を私達の信仰の土台と考える時、大切な四つの点は何でしょうか。
問5、聖書の著者は誰ですか。
問6、聖書が「神の霊感によって書かれた」とはどういうことでしょうか。
問7、啓示の二つの種類とは何でしょうか。
問8、主な三つの聖書観を上げて下さい。
問9、私達「福音派」の特徴は何でしょうか。
問10、聖書はなぜ、「神のことばである」と言えるのでしょうか。
問11、私達の信仰の土台として客観的な真理を求める時、大切な前提は何だと思います か。
問12、何か分からなかったことや、ご質問がありますか。