第8課  洗礼と聖餐について                  

                                               

 教会は、聖書の教えに従って、二つの「聖礼典」を守り行なっています。 洗礼式 と 聖餐式です。これはどちらも、主イエス・キリストご自身によって、みことばをもって定められ、行なうように命じられているものです。これは、単なる宗教儀式ではなく、深く広い「実質的な意義」をもった大切なものです。だから、第7課で学んだように、これが「真の教会のしるし」の一つに数え上げられており、教会はこれを執行することを、必須の重要な使命として受け止めているのです。

 この課では、この二つの「聖礼典」の深く広い(すなわち多様な)意義を学びます。それは、

1、深く広く多様な意義を知って「聖礼典」にあずかることによって、神様の祝福の色々な面を味わうことが出来るようになるため。意義を知らずに「聖礼典」に参加することは、神様の大きな祝福を味わいそこなうことになってしまいます。

2、「多様な」意義の一面だけを強調することによって、多様な「教派」が成立している面があります。自分の狭い理解だけに固執せずに、色々な意義を学んで、「キリスト教の広さ」を知って頂きたいから。

※カトリック教会では、「聖礼典」(カトリックの言葉では「秘跡」)を7つ数えます。 1、洗礼、2、堅信、3、聖体、4、ゆるし、5、病者の塗油、6、叙階、7、婚姻。

 多くはカトリックの伝統の中で制定されてきたものです。(7つに定まったのは、12世紀頃と言われます)

〔1〕洗礼について

(1)洗礼の根拠

1、主イエスご自身が、洗礼を受け(マタイ3章13〜15節)、「正しいことを実行」すべきことを教えられた。 主イエスが、弟子達に、洗礼を授けるように命じられた。(マタイ28章19節)

3、使徒達も、洗礼を説き、施した。(使徒2章38節、41節)

(2)洗礼の意味 (参照、ローマ6章1〜14節)

 ある洗礼準備用の本(「バプテスマに備えて」横山武著)では、洗礼の意味を三つにまとめてあります。

1、象徴としての意味。(ローマ6章3〜4節)

 ★信仰により罪の中から救われて、キリストにつながれた、という霊的事実(聖霊を与えられた者となった)を象徴する。

 ★キリストと一体であること、古い自分がキリストと共に死に、新しい命にキリストと共によみがえったことを象徴する。→水に沈められ(死に)、水から引き上げられる(生きる)ことは、これをよく表わしています。

 ★クリスチャンとして、神に従い、神と共に生きる新しい人生を出発したことを象徴する。

※絶対に誤解してはならないことは、私達は「洗礼によって救われる」のではない、ということです。 

 「洗礼を受けてクリスチャンになる」のでもありません。「信仰によって救われたから、洗礼を受ける」のであり、「信仰によってクリスチャンになったから、洗礼を受ける」のです。

※もう一つ絶対に誤解してはならないことは、洗礼は信仰生活の「ゴール」ではなく、「スタート」だということです。「聖書をよく知ってから受洗します」などというのは洗礼を誤解しているのです。

2、告白としての意味。(ローマ6章6〜10節)

 救いは信じる者の魂の内に起こる霊的な出来事ですが、洗礼はそれを公に告白することでもあります。自分が救われたという霊的な事柄は人々に見えませんが、それを洗礼という形で公に人々の前に明らかにするのです。主イエスが洗礼を命じた理由の大きな一つはこれです。

 ですから、洗礼を単なる象徴に過ぎないと軽視したり、無視したりすることは正しくありません。むしろキリスト教会の歴史の中で、信仰の先輩達は命懸けで洗礼を執行してきたのです。それは、そのことが命懸けでキリストご自身を告白することであったからです。

 ですから、普通キリスト教会では、洗礼を受けていることが「名実共にクリスチャンである」ことのしるしとして受け取られます。そしてどこの教会・教団教派であっても、キリストを公に告白した兄弟姉妹として受け入れられるのです。

3、あかしとしての意味。(ローマ6章11〜14節)

 洗礼は、私達が罪から救われて永遠の命を持つ者となったことを公にするだけではありません。更に、救われた私達がこれからどのように生きる者であるかをあかしするものでもあるのです。つまりこの点、洗礼は「ゴールではなく、スタートである」と言われるわけです。

 洗礼を受ける者に期待されているのは、神に対する全き献身の生活です。(ローマ12章1〜2節) 洗礼は私達がこれからそのような生活を目指して生きる者であることを、あかしするものでもあります。

 言葉を変えると、洗礼は「私はキリストの弟子となります」(マタイ28章18〜20節)という宣言なのです。

 この他、次のような意味も洗礼にはあります。

1、教会に属する者となったことを表わす。

 私達は、救われて目に見えない教会の一員となると同時に、目に見える教会の一員ともなります。ですから、通常(そうでない教会もありますが)洗礼を受けることで正式にその教会員ともなるのです。

2、神様の恵みの約束の内に入れられたことを確認する「証印」である。 

 つまり、洗礼は霊的な恵みを表わす「象徴」であることを上記で学びましたが、同時に洗礼によって意味される実際の霊的恵みがあるということです。

 例えば、私達は結婚すると婚姻届けを出します。子供が生れると出生届けを出します。婚姻届けによって結婚が成立するのではありません。出生届けによって我が子となるのでもありません。結婚や出生の事実が先にあります。その点「届け」は「洗礼」に似ています。しかし、これらの届けは単なる「象徴」では終らない、という実質的な面もあるのです。洗礼は、私達が「あなたは神様のみ国の子となって、神様の救いの約束にあずかる者となりました。罪は赦されました。天のみ国の相続人でもあります。………」という身分を確認する「ハンコ」を押してもらって、神様との間に「契約」が成立したようなものです。

(3)洗礼の祝福

 これまで述べて来たことと多少重複しますが、洗礼に関係する神様の祝福をここにまとめておきます。

1、罪の赦し(使徒22章16節、ヘブル10章22節、使徒2章38節)

2、新生(新しく生れること)(ヨハネ3章5節、テトス3章5〜6節)

3、キリストにつながれたこと(ガラテヤ3章27節)

 (この結合は、キリストの死・葬り・復活との結合である)(ローマ6章3〜5節)

4、父なる神との新しい関係(ガラテヤ3章26節以下)→神の国の正式な相続人となる(ローマ8章17節)

5、聖霊を与えられたこと(コリント人への手紙第一12章13節、使徒2章38節)

6、教会に属するようになったこと(使徒2章41節)

7、救いを頂いたこと(マルコ16章16節、ヨハネ3章5節)

(4)洗礼を受けるには(その準備と誓約)

1、受洗の準備。〜洗礼を受ける準備を始める資格は、その人が信仰をもった(つまり、悔い改めて、イエス・キリストを救い主と信じた)クリスチャンであることです。準備の内容として、私達の教会では、

  1、聖書入門クラス(聖書の基本的な教えの確認、全10課)と、

  2、受洗準備クラス(これで洗礼の意味を確認し、信仰生活のスタートに必要な基本を確認します)を設けています。

 準備クラスの中で、救いのあかしを書いて頂きます。これは、救いの信仰を公に表明して頂くためのもので、役員会のメンバーが面接のために読ませて頂くのと、受洗の際に信徒の前で読んで頂きます。

 受洗を希望される方には、「バプテスマ志願書」を提出して頂き、役員会の面接を経て洗礼式に至ります。(洗礼を許可するのは、牧師個人ではありません。新しい教会員を「神の家族」として迎える責任は、牧師個人にではなく、教会全体とそれを代表する役員会にあるからです。また、面接と言うのは試験ではなく、本人の信仰を確かめ、受け入れる教会の側の自覚を確かめるためのものですから、恐れる必要はありません。)

2、洗礼の誓約。〜洗礼式の時、本人のなす「誓約」は次のようなものです。     

  1、(     )兄弟(姉妹)、あなたは天地の造り主、生けるまことの神のみを信じますか。

  2、あなたは、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いによって救われていることを確信しますか。

  3、あなたは、聖霊の恵みに信頼し、キリストのしもべとして、ふさわしく生きることを願いますか。

  4、あなたは、自分の最善を尽くして、教会の礼拝を守り、教会員としての務めを果たし、あかしの生活をすることを願いますか。

  5、あなたは、日本同盟基督教団の教憲・教規、および多磨教会の規則に従い、その純潔と一致と平和のためにつとめることを約束しますか。

 これを内容から見ると、主に3つのことがあります。

 1、唯一のまことの神への信仰。

 2、主イエス・キリストへの信仰。

 3、教会生活に関する約束。

 これは、洗礼を受ける時に約束すればあとは忘れていいのではありません。時々自分で思い返す必要もあるでしょうが、特に、新しいクリスチャンの洗礼式に参加する時、これを自分の誓約として、繰り返し心の中に確かめることが大切です。洗礼式は、受洗する本人にとって「聖礼典」であるばかりでなく、信徒全員にとって「聖礼典」なのですから。                      

(5)洗礼に関する見解の違いについて

 洗礼については、教派間で若干の違いがあります。主な相違点は2つあります。

1、洗礼の形式について。〜全浸礼でなければ認めない立場(例えばバプテスト派)と、全浸礼・滴礼のどちらをも認める立場とがあります。

2、洗礼を受けるべき人について。〜自分で信仰告白をした大人だけが受けるべきであるとする立場(例えばバプテスト派)と、信仰告白をした大人と信者の子供とが受けるべきであるとする立場(例えば長老派・改革派)とがあります。言い換えると、前者は成人洗礼のみ、後者は成人洗礼と幼児洗礼の両者を行なうということです。(幼児洗礼を受けた人は、主体的な信仰を持った時「信仰告白式」を行ないます。)   

 これらの立場の違いは、今まで学んできた洗礼の「多様な意味」のどの部分を強調しているか、という違いであると思います。すなわち、全浸礼・成人洗礼の立場は、救いの事実の公的なあかし・キリストの死と復活との結合・本人の信仰告白としての洗礼ということを重視していますし、滴礼・幼児洗礼の立場は、神との救いの約束(契約)の内にあることを洗礼の意味として重視しています。

「あなた方は、恵みのゆえに、信仰によって救われた」(エペソ2章8節)とありますが、成人洗礼は「信仰によって」を強調し、幼児洗礼は「恵みのゆえに」を強調しているとも言えるでしょう。)

 このどちらかだけを認め、他を「洗礼でない」と否定することは、「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」(エペソ4章5節)であることから言って、また洗礼は生涯に一度だけ受ければよいことから言っても、正しくないでしょう。どの教派で受けたどの形式の洗礼も、「父、子、聖霊の御名によって」(マタイ28章19節)授けられた洗礼であれば、有効な洗礼として認めるべきである、と考えます。

 私達多磨教会では、原則として全浸礼、そして成人洗礼の立場を取っています。しかしそれは他の立場を認めない、とか否定する、ということではありません。他の立場に込められた大切な聖書の真理もあることを認め、形式は別でも、その内実を尊重することは大切な態度と考えています。

 (例えば、信徒の子に洗礼を施さなくても、信徒の子を「契約の子」として受け止めて、神様のみ恵みの内に育てることは大切な態度です。)


〔2〕聖餐について

 洗礼式は一生に一回受ければよいものですが、聖餐式はみことばの教えに従って繰り返しあずかるものです。多磨教会では、おおむね月に一度の割合で聖餐式を執行しています。

(1)聖餐の制定のみことば

 マタイ26章26〜29節、マルコ14章22〜25節、ルカ22章14〜23節、ヨハネ6章53〜58節、コリント人への手紙第一11章23〜29節

(2)聖餐の意味

 まず、日本同盟基督教団の「教会員の手引き」にあげられている主な3つの意味を学びましょう。

1、主イエス・キリストが私達のために十字架にかかって私達の罪を処分して下さり、新しい救いの契約のために血を流して下さったことを表わす。

 聖餐式には、パンとぶどう液が用いられます。パンは、主が十字架上で裂かれた肉を表わし、ぶどう液は、私達のために流された契約の血・罪のきよめの血(ヨハネの手紙第一1章7節)を表わします。私達は、聖餐式にあずかる時、信仰によって、十字架の恵みをかみしめ、新しい命の基礎がキリストにあることを覚え、主への信仰と信頼を告白するのです。そのことを通して、すぐに恵みを忘れてしまいがちな私達は、「わたしを覚えるため」これをしなさい、と言われた主を心に刻み付け続けるのです。

2、神の御手によって養われることを意味する。

 神の民とされた私達は、神の御恵みの中に養われ、聖化の恵みを受けながら、信仰の成長を遂げていくのです。聖餐は、キリストが神の恵みを私達に与える手段の一つです。(ヨハネ6章51〜58節) つまり、単に過去の十字架の救いを回顧するというだけでなく、今ここに霊的に親しく臨んで下さっている主キリストの恵みにあずかり、必要な霊的

養いを受ける時でもあるのです。

3、クリスチャンが一つであることを意味する。

 聖餐は、キリスト者相互の密接な交わり、クリスチャンが一つの家族であることを表わします。(コリント人への手紙第一12章13節) そこには、国籍・民族・文化・思想・等々の隔てはありません。聖餐と憎しみ・裁き・差別は相容れないものです。聖餐式にあずかる時、私達は、キリストの恵みによって強く結び合わされ、愛の交わりの中に生きつつ、キリストの再臨の日を待ち望むのです。(コリント人への手紙第一11章26節)

 以上は、聖餐の主要な意味ですが、聖餐にも、「多様な」意味があるのです。ある人がそれを 数えているのを(一部上記とだぶりますが)以下にご紹介します。

1、キリストの救いの恵みの記念。(コリント人への手紙第一11章24節)

2、私達罪人のために主キリストが死んで下さったことの象徴。(ルカ22章19節)

3、キリストに対面するために最も有力な恵みの手段。(「恵みの手段」には、普通、

 1、祈り、2、みことば、3、聖礼典の3つを普通数えますが、そのうちでも聖餐式は最も直接的にキリストと直面するというのです)

4、感謝の祭り。(聖餐式は、旧約聖書の「過越の祭」をキリストが成就したものです。(コリント人への手紙第一5章7節)

5、家族団欒の食事。(旧約で過ぎ越しの祭は家族単位で守られました。私達の霊の家族との団欒です。)

6、現在のみでなく、あらゆる時代のクリスチャン・教会の交わりの時。(見えない教会を覚えましょう)

7、キリストへの誓約を確認する時。(聖礼典を意味するサクラメントはもともと宣誓の意味です。)

8、恵みの契約。(コリント人への手紙第一11章25節)(恵みにより救うという約束を確認する時です。)

9、無言の説教。(コリント人への手紙第一11章26節)(主の死を宣べ伝える、無言にして最大の説教と言われます。)

10、希望の象徴。(マタイ26章29節)(聖餐は未来にも関わります。主が来られる日……天の御国での食事!)

 聖餐式にあずかる時、漠然とあずかるのでなく、聖餐の多様な意味を色々と思い巡らすことはとても有益で感動的なことです。                                          

                                        

 (3)聖餐の備え

 聖餐式には、「ふさわしくないままで」あずかってはならないことが聖書に教えられています。(コリント人への手紙第一11章27節) 「ですから、一人一人が自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい」(11章28節)

 では、聖餐式に臨むにあたって、どのような「吟味」つまり備えをすればよいのでしょうか。ある人はそれを次のように3つにまとめています。

1、各人が、自分の罪と裁きを考えなければならない。神の前に自分のありのままの姿を見つめ、謙遜になるためである。罪に対する神の怒りは大きく、罰は不可欠・不可避である。それは、遂には御子イエス・キリストの十字架の死をも必要としたほどなのである。

2、イエス・キリストの苦難によってのみ全ての罪が赦され、キリストの完全な義が与えられる、という神 の約束を信じているかどうかについて、心を吟味しなければならない。その吟味は、自分自身の罪を全て贖い、あらゆる義を全うするほどの完全さでなされなければならない。

3、今後全生涯を通じて、主なる神に感謝をささげ、神の御前に正しく歩むよう、両親を吟味しなければならない。

 これらをまとめると、

 1、自分の罪の直視と悔い改め

 2、信仰により救われていることの確認

 3、献身の決心の確認、 の三点でしょう。

 このような備えを、聖餐式への参加者全てが、一人一人個人的に主の御前で祈りつつなさなければなりません。そのようにして初めて、主に喜ばれることが出来、また、主がどれほど私達を愛して下さっており、親しく取り扱って下さるかを体験出来るのです。逆に、心に確信がないままであずかるならば、裁きを受けることにもなりうるのです。

 ただし、ここで一つ注意しておかなくてはなりません。それは、(特に、正直で純粋で完全を求める方にありがちなことですが)「私は、不充分な信仰で、聖餐式にあずかるの

にふさわしくない」と考えて、パンとぶどう液を受け取らないという態度は、正しくないということです。

 主イエス様は、私達の信仰が不充分で、悔い改めも不徹底で、きよさも神様の求めておられるところからは程遠いことを当然ご存知なのです。ご存知の上でなお、「さあ、あなたの口を開けて私の肉を食べなさい。私の血を飲みなさい。さあ、私を味わい、恵みを受けなさい。」と、(こう言うことが許されるなら)私達の口をこじあけて、恵みを与え、私達の不充分な信仰を養おうとしておられるのです。そのようにしなければすぐに主を忘れ、落ち込む私達の信仰の弱さ・頼りなさをご存知だからこそ、わざわざ聖餐式を制定されたのです。ですから、「ふさわしくない」とは、自分を吟味することもせずに不敬虔に聖餐式にあずかろうとしたり、明らかに自覚している罪を悔い改めずに平気な顔で聖餐式を重ねるような態度を戒めたのです。もし、自分の情けない姿を自覚して、心砕かれて、なお主のみもとにすがろうとするへりくだった信仰者であるならば、むしろ彼こそ聖餐式にふさわしく整えられた者であると言えるのです。

 ここまで言っても、なお、聖餐式を辞退する方もあるかも知れません。そのような方には、「あなたが聖餐式に表わされた救いの恵みからご自分を除外する覚悟をお持ちならば、そのようになさって下さい」と申し上げる他ありません。私には、主が制定された聖餐式の恵みを自分から放棄する勇気はとてもありません。聖餐式にあずかることは、信仰生活を送る上で不可欠の重要な事なのです。(そのこともあって現住陪餐会員の資格には聖餐式にあずかることが要件としてあげられているのです。)

(4)聖餐に関する見解の違いについて

1、まずカトリックは、聖餐(彼らは「ミサ」と言う)において、パンとぶどう酒は実際に主イエス・キリストの肉と血に変わるのだと考えます。これを「化体説」または「実態変化説」と言います。私達はそうは考えませんし、聖書はそのように教えていません。

この場合、信者は、聖餐式を行なう度ごとに主 イエス・キリストのみ体を犠牲として神にささげていることになります。つまり、主イエスを何度も十字架に付け直しているようなものです。しかし、主イエスはただ一度十字架にかかって、完全な救いを成し遂げて下さったのです。私達の罪は過去・現在・未来の全てに渡って赦され尽くしているのです。 (カトリックには、洗礼を受けた時までの罪が赦されたのだとする考え方があります。だからミサを新たなる犠牲としてささげるのです。まただから、カトリックの十字架には主イエスがかかったままであり、プロテスタントの十字架には主イエスがかかっていないのです。)

2、プロテスタントでは、パンとぶどう液(酒)と、主イエス・キリストとの関係をいかに理解するかによって、幾つかの見解がありますが、その違いは微妙なもので、化体説を否定する点で共通しています。

 基本的に、パンとぶどう液(酒)を単なる「象徴」と受け止めるか、それとも、そこにキリストの特別な臨在を認めるか(ルター)、霊的な現実が伴うことを認めるか(カルヴァン)の違いがあります。 

 この点、私は、パンとぶどう液(酒)には、単に過去の十字架を回想・記念するため

の「象徴」「記念品」以上の意味があるのだと受け止めています。そう受け止めてこそ、聖餐式において、神様が備えておられる霊的な恵みを味わうことが出来ると考えます。

3、ついでに、パンについて、種無しパン(つまりイースト菌を入れないで作ったパン)を用いるか、種有りパンを用いるか、という議論があります。ぶどう液についても、「ぶどう酒」を用いるか、「ぶどうジュース」を用いるかという議論があります。それぞれ聖書的な根拠と、歴史的・伝統的な考え方があ ってやっていることですが、ここでは詳しくは述べません。どのやり方も意味付けがあるので、否定すべきではないと思います。



 アフター・バプテスマ・クラス 復習プリント  8   

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  第8課  洗礼と聖餐について

問1、教会が守り行なうべき聖礼典は幾つありますか? それは何ですか?

問2、洗礼にはどのような意味がありますか?

問3、「私は信仰のみによって救われたのだから、洗礼などという形式的なものは受けなくてよい」という人がいますが、聖書はそれに対して何と教えていると思いますか?

問4、「私は洗礼を受けたのだから、もう大丈夫。これで天国にゴールインしたのだ。」という人に対しては、聖書は何と教えていると思いますか。

問5、聖餐式には意味はどのような意味がありますか?

問6、聖餐式に臨む時、どのような備えをする必要がありますか?

問7、自分は今日聖餐式にあずかるにはふさわしくないと思う時、どのようにすればよいと思いますか?

問8、その他、何かわからなかったことや、ご質問がありますか? 


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